7月 23rd, 2009 — 12:42pm
最初から中国に自ら進んで熱心に出掛けたのではない。中国と私の縁を強く結んで下さったのは、佐野藤三郎さんであった。佐野さんは、私の人生を大きく変えた人のひとりと言っても過言ではない。
今日は佐野さんの思い出の一部をご紹介する。
1979年、第一次中国技術ミッションに誘われ、訪中したのは、中国文化大革命(1966年から10年続く)が終わりを告げてから、間もない頃であった。私が社団法人日本技術士会に入会して6年ほど経った時のことである。
文化大革命後の新しく再出発した社会主義中国の概要を駆け足でながめた。その同じ年、新潟県日中友好協会長の佐野藤三郎さん、理事長の奥村俊二さんから中国の黒龍江省での農業基本建設技術協力調査に誘われた。
日中国交が正常化したといっても、まだまだ未知の部分が多く、今なら笑い話で済むが、私の父など共産主義国へ行って感化されて帰国するのではないかと心配してあまり良い顔はしなかった。それも当時としてはやむを得ない状況であった。
この頃、中国への窓口は、佐野さんがほとんど一手に引き受けておられた。というよりも中国に対して、高崎・劉ルート(いわゆるL・T簡易)のほか佐野さん以外にコネがなかった。佐野さんは決して儲け仕事ではなく、ただただ日中両国の友好が続くことを願ってのことであった。特に最初の頃は大手商社、一般の会社、個人を問わず中国との口利きをすべて佐野さんにお願いしたにも関わらず、ルートが出来ればあとは佐野さんに対して知らん顔をするというケースも多くあったようだ。
奥村さんが私を誘った理由は、私が地質とダムの専門家であったからである。最初、奥村さんにはある大手会社の技術者に意中の人がいたようだが、その人が勤務する会社がゴーサインを出さないという事情があり、その挙げ句、私に白羽の矢が立ったようだ。
参加するそのミッションの団長は佐野さんだった。視察旅行ではなく、海外業務は私にとって初めてで、特に共産主義国の中国であるということで、最初はとても緊張した。佐野さんとは初対面であったが気さくで、人に対し威張らない。そのとき偉い人ともたくさんお会いしていたが、佐野さんは相手の名刺の肩書きで動く人ではないとお見受けした。佐野さんと帰国途中の北京で中国対外友好協会の主任 孫平華さんにお会いした時もそうであった。
ミッションは佐野さんが中心となって、1976年、20人ほどでかつての満州北端の三江平原を訪れた。この三江平原農業基本建設技術協力団に技術専門家として加わったのが佐野さんとの出会いであり、私にとっての国際技術交流の始まりである。その後、このプロジェクトは並々ならぬ努力の甲斐あって、2年後にODAつまり JICAベースになった。F・S作り(事前調査に行う妥当性)のため最初の数年間は私も1回3ヶ月以上の滞在を数回にわたり経験した。
最初の頃の佐野ミッションは、準国賓待遇である。どこへ行ってもSPがつく。中国側の農業の現状の概況説明が黒龍江省佳木斯市(ジャムス市)の招待所「佳木斯賓館」で約一週間続いたが、団長として聞かなくともいいような細かな技術的な問題まで熱心に耳を傾けておられた。佐野さんはその後、日本国内に予定があり、ひと足先に帰国されることになった。私も帰国後、10月中旬から南米行きが決まっていたので、愛媛大学で地理の講義が待っている梅津正倫さん(現、名古屋大学教授)と、佐野さんに同行して帰国した。この時、佳木斯から哈爾濱(ハルビン)、哈爾濱から北京へと長い列車の旅が続いた。もちろん、佐野さんのレベルに相当する中国側の随員と通訳はいた。
この列車の長旅では、さすがに中国側との長時間の通訳を入れた会話は疲れる。自然と日本側、中国側ともそれぞれで話す時間が長くなる。地理学の資料作りで車窓からの撮影に取り組んでいる梅津さんは別で、佐野さんは私にご自分の今までの経験などを話してくださった。私の想像では、相当な苦難の道をたどって、現在があるものと想像していたが、決してそういう話はなさらない。これからの日本のあり方、世界の中の日本、とりわけその中で日中関係の重要性を説いておられた。地球の裏側の国々といくら仲良くしてもいざという時は頼りにならないともおっしゃった。当時は環本海とはいわず、新日本海時代といっていた。さらに私に対しては、まだ小規模の会社なのにそれを人に任せて参加してもらったという旨の謝意を下さった。さらに将来予想であるが、「あんたを見ていて分るんだ。貴方の時代が来る。それに見合うだけの人間に成長しなくてはならない。ある程度になるとよくとんでもないことを目指すものがいるが、そんなことでは良くないよ」と。私は「そんな意思を持ったことはないが・・・」と言うと、「会社はやがて大きくなるよ。その時、慎重さが大切であることを言いたいんだよ。他人の話に動じてはいけない」と説かれた。これらは佐野さんの買いかぶりだと思うが、さらに私に対しての人生のあり方など親切なアドバイスをして下さったのが30年以上経過した今でも脳裏に焼きついている。
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7月 22nd, 2009 — 12:19pm
昨日の「中国との交流のはじまり」では、少し本題から逸れたままとなったが、本題の技術交流の話に戻ろう。
交流課題の協議、技術交流では相手の要望、意思の確認を充分に行ってさえも、期待感を与えすぎることが多いので、不都合なことなどははっきり断り、あいまいな妥協などはしない。そして、日本側も皆が国際技術交流の意義を充分理解した上で行動する。日本の常識は必ずしも中国の常識ではないからである。
交流の当初は、中国側は国営企業の工業分野での新製品などの技術開発を求めていたが、数年前よりそれは個々の企業が行うことである事、莫大な時間と経費を使った研究開発ノウハウを得るには費用を必要とする事がようやく解り、現在は専ら社会基盤整備に関する分野に交流が移っている。日本では普通、誰でも当たり前と思っていることが、中国の人達に理解させるのには相当苦労をすることがある。中国の技術交流の参加者は省、市県、国営企業、民間企業の多岐に渡る。その人数の多くはごく限られた官庁・国営企業に偏重しているが、携わった中堅技術者が取得した技術を取り敢えずは周囲に伝えればよい。それがまず、技術交流だと考えて取り組むのがよい。
毎年、次年度の交流課題を協議し、相互に訪中、訪日としている。このほか、自費訪日、訪中もあり、これはその都度お互い承認する。この場合の訪日は予算を組んでいないため、その経費の対応に苦慮したこともある。また、交流課題にない技術専門家の訪中の依頼もある。要請に応じられる技術者、経験技能者がいない場合の対応や他地域からの応援体制なども問題である。国際旅費、滞在費は先方負担の専門家派遣を除き、互恵平等の原則での国際旅費を負担し、国内経費は相手方の負担としている。また、要請される技術者の訪中が可能かどうかも課題である。技術者の中国への派遣は第一線の企業内技術者を要請されることが多く、その場合雇主の理解が必要であるし、研修の受入れでも問題が生じることがある。
中国ではこのような経費は、すべて予算化された公費を用いているようだ。我が国の一部で実施されているように行政と協力した交流が必要であることは言うまでもない。私の経験では、行政は地味に活動を積み上げればそれを認めるし、活動に対して好意的に対応してくれる。従って行政に頼り過ぎず、むしろ専門分野で行政をリードするような動きが必要であろう。そして、これからは、中国のみならず、東北アジア諸国の技術者が手を取り合って共通テーマに取り組むべきことが理想であると思う。
かつて、我が国の日本海沿岸の自治体は経済面で「競って対外交流へ」抜けがけを続けてきた。それなりに成果を説く人もいるが、実際は何の意味があったのだろうか。うまく相手に利用されたことも多分にあったと思う。こんなことから互いに情報交換しながら、地域の特徴を生かした役割分担を行うとともに、「多極分担」し、決して無意味な分散にならにようにしなければならない。そして連携への合意を行う必要がある。
それに対して技術協力はリスクが少なくなりやすい。まず人的交流、技術交流、そして経済交流へと少しずつ、時を重ね、深めていく過程をとることが必要である。地域の交流は民間だけでなく自治体と一体で無ければ効果が少なく持続性に乏しい。さらに自治体や地域が行う協力は国と国の大規模なプロジェクトやODAのはざまを埋めるきめ細かなものが大切である。これを活発にしたら技術協力の効果が大きくなると思われる。そこで、さらなる政府の積極作を期待したいところである。技術交流も姉妹都市の連携の延長で実施するとやりやすい。同じ技術系等の団体との交流に取り組むと、それがやがて他へ広がるからである。留学生交換・受入れ・企業間の提携・ノウハウの提供、合弁等も大切である。
国際間の技術協力などでも「国際化」について、理念の詰めが必要である。「国際化を進める理由」を深く考えなければ、自治体は当然のことながら民間団体でも行き詰まりを生じるし、実行の段階で批判を生じかねない。最低限、国際化「ミニマム」が必要だと思う。つまり、それは誰もが「国際化に関心を持つこと」が最低条件である。
第一に、アイデンティティを掘り下げ、いわゆる「地元学」の構築をすること。
第二は、内なる国際化を求めるため異質な文化と共に生きる知恵を持つこと。
第三は、視野を広く世界に向けること。これらの認識を持って決め細やかな技術交流を続けていく必要が大切であると思う。人類存亡に関わる地球環境などの大きな問題が目の前にある今日、さらなる交流への道が極められなければならない。
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7月 21st, 2009 — 12:03pm
地方公務員をなんとなく辞めて、商売をはじめて6年ほど経った1979年、ふとしたキッカケで中国との技術交流が始まった。この経験が私にとっての国際交流の礎となり、後の人生をより豊かななものにしてくれたと思う。そこで、美術館の話から少し離れて、中国との技術交流について数回に渡って掲載したい。
嵐が吹き荒れた10年以上もの中国の文化大革命も終焉した後、旧満州最北部の三江平原(さんこうへいげん)プロジェクトに参加し、長い時は三ヶ月も中国の技術者と共に暮らし、荒野湿原の荒廃地の開墾を夢見た。しかし、その頃の日本海は厳しい冷戦構造の中で、ソ連邦、そして北朝鮮間に、まさに政治的バリアが存在しており、日本の世論も中国に対しての技術協力に決して好意的ではなく、これに参加することを周囲の者から異端児扱いされたり、得意先からも「何故、共産国へわざわざ」と言われたりした。さらに、冷たい態度も何回となく身をもって体験した。そのようなことを少々経験した私などまだまだ甘かった。それよりも前に、往来そのものが極めて困難な時代、「バリア日本海」の「氷解」を信じ、技術交流に努力された先人がいた。その方々を知るにつけ、私の多少難儀な体験など、些細なものであったことを改めて知り、それらの先人に心からの敬意を表さずにはいられない。
1980年代中頃に入り、再び別の角度での技術交流が始まった。黒龍江省政府から技術交流が提案され、亡くなった津田禾粒新潟大学長を含む数名の訪中の招請を受けたが、出発直前に、あの不幸な天安門が起こり、訪中を中止し、その間約2年間の空白が生じた。その後、先方の要請もあり、以前の主旨に沿って、経験技能者も含めた広い範囲の新潟県対外科学技術交流協会を設立した。細水長流を原則に協議書を黒龍江省と政府が作った民間機関と調印。この時期から広い意味で日中民間技術交流が始まる。技術者派遣、技術研修生受入れのほか、双方で合意した特定課題を含めての技術交流は、最近までに派遣、受入れを合わせて80回以上に及ぶ。
その間に、三江平原以来の黒龍江省関係機関等との友好関係、そして老朋友が多くできたことから、個人的に技術業務の合弁や独資の会社を設立した。これらは、言うまでもなく第一が中国への支援が目的である。中国で目指す小さな政府、これに国営企業の合理化を目指すリストラが始まり、その目的に沿うよう努力したのである。またAOTSなど政府系の研修機関を通じての技術研修生を受け入れ、さらに独自で就労技術者を受け入れ、大学院留学生の研修、それにアルバイトなどへの協力も結構引き受けた。これらにより、両国技術交流の一層の発展成長を期待するという願いであった。
しかし、現実は期待と裏腹に、なかなかうまく行かないのが正直なところである。オーバーかも知れないが派遣されている技術者を、文字通り手塩にかけて教育する。すると、ある日突然、中国の出身機関から幹部へ登用すると連絡が来て彼らは帰国してしまう。また、数のうちには老父母の病気や一人っ子政策のツケによる登校拒否(いや、出社拒否といった方がいいのだろうか)などが生じる。その場合は、本人の意思に反して帰国することになる。何の為の技術交流なのだろうと思うこともしばしばであった。
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7月 20th, 2009 — 3:18pm
中国で文化大革命終焉直後、中国へ行く機会が多かった。(中国との交流の経緯はまた別の機会に)
中露国境の宿舎の夜は長い。今のようなカラオケもなく、麻雀も原則禁止のような状態なので、卓球をしたり、長談議以外、夜の過ごし方はない。
親しくなると、通訳を介しても結構、内緒で当時の政治批判や組織や職場の幹部への酷評も聞こえるようになる。しかしそのころはまだ、孔子、孟子もほとんど語られることはなかった。
そんな中でも、中国の名言、名句などを随分教えてもらった。漢字の発祥の国なので、日本と同じものが多い。私が比較的若いときから、大好きな言葉「知足」。特に昭和四十年代初め、学校町の新潟県建設業会館落成記念の雲洞庵住職が揮毫された「知足」の壁掛けを頂いてから一層好きになった。「知足」はカウンターパートたちと中国辺境の夜の長談議の話題であった。記憶違いでなければ、確か「知足長楽」文字通り、足るを知るものは楽しみ長しや、また、「知足常楽」とも言っていたようだ。
もう随分前になるが、知事だった君健男さんの葬儀に黒竜江省から参列した対外友好協会副主任の李青春さん、それに王英春さんが副秘書長の孫克倹さんを伴って、夜、三人がお忍びで、タクシーを使ってわが家へやって来た。そのときビールを酌み交わしながら、色紙に黙って「知足」と書き、さらにつけ加えた。「吾唯知足」である。中国の人々もこの「知足」は好きらしい。
また、独特な手法で日本画壇をリードする有名な画家、平松礼二さんが来港されたとき、ミニ美術館の設立の構想を申し上げ、二人で館名は「知足」で意気投合した。平松さんは早々と揮毫をして、さらにそれを表具までして送って下さった。その後、福井で繊維会社などを多角経営する前田さんが来られた。大阪大学工学部出身の彼もなかなかの雑学者。雑談のうちに、話は「知足」となり、「足る知れば辱められず、止まる知れば殆からず、以って長久なるべし」と孟子を引用する。また開館間もない頃、「名は『知足』です」と名乗る新潟市内の会社勤めの知足さんがわざわざご夫婦で、また、知足ちゃんという少年が9歳の誕生日に知足美術館を訪れたことを聞いた。一度、同名のところを訪れたかったとの事だ。あれから十数年、知足ちゃんも立派な青年になっていることであろう。「知足同好のメンバー」がまた増えた。嬉しかった。
全国稀にみる大地主の豪邸をはじめ、いろいろ展示物のある新潟市江南区沢海(旧 中蒲原郡横越町沢海)の北方文化博物館(通称:豪農の館)には、県外からのお客様が来ると、必ず案内する。何回訪れても、その都度新鮮なものを発見する。初めてのお客様も規模などでびっくりするが、私の我流でたどたどしい説明にもそれなりに感激する。先日の訪問の際、出発までに時間が少々余ったので、「何か新しいものは」と売店をのぞいた。「吾唯知足」を焼印し、杉板で造った素朴な菓子器を見つけた。「こんなところにこんなものが。さすが、伊藤文吉館長だ」と思った。
三月初め、レクイエムの演奏会があり、合唱団のテノールを受け持つ、かつて第四銀行に勤務していた新潟市郊外の亀田町在住の井浦了さんからご招待を受けた。伊藤館長ご夫妻と私たち夫婦二組とか。たまたま隣合わせになり、開演前や休憩時間を利用して、亡くなった津田禾粒(かりゅう)先生や今も元気の良い茅原一也先生のことを共通の話題として歓談した。その際、決しておねだりしたのではないのに菓子器のことを申し上げたら、翌日早速送っていただいた。
「 前略
先般、県民会館でのレクイエム音楽会で偶然隣の席に座らして頂きまして、茅原、津田両先生よりはよくお話を聞いておりまして、意外な所でお会いして驚いております。
所で「知足美術館」を建てられたのが中山さんである事も知らずに居りました。これも何かの御縁と思い、私が新潟竹風会発足記念に作りました、私の山の材料で作った「知足菓子器」を送らせて頂きます。お使いください。
伊藤文吉
中山輝也様 」
と手紙にしたためてあった。それで大物著名人一人を知足同好の士にまたまた勝手に加えることができた。共通しているものは禅林句集にもある通り、「自己の分際をわきまえ、貪りの心を起こさぬこと」である。これからもこの気持ちを忘れずに進みたいと思う。



写真左 上段左端が伊藤文吉さんより頂いた菓子器
写真中・右 アーティスト、文化人による「知足」
現在、知足美術館 分室では数々の「知足」を展示しています。(8月末までの予定)
知足美術館に縁のあったアーティストや文化人の方たちから揮毫して頂いたものなどの一部を紹介しています。
(分室の開館時間は本館とは異なりますのでご注意ください。月~金(祝日を除く) 10:00~17:00)
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7月 19th, 2009 — 7:08pm
平成7年、新潟市の平島から新光町へ、本業の社屋を移転することになった。当初は美術館を作るような計画は全くなく、ただ、移転地を探そうと思っていた時である。平成5年、正月の社内報で次のようなことを書いた。
「信濃川本川大橋西詰の新しくできた新光町というオフィス街。下手の県庁から政府機関の合同庁舎などが並ぶ一角に、とりわけ大きくはないが、周辺の環境にマッチした8階ほどのビルが控えめに建っていました。ビルの名を確認のため、真下まで近づき見上げますと”科学技術会館“と読むことができました。一瞬特殊法人の建物かと思ったのですがどうもそうでもないらしく、テナントの看板を見ますと4階まではキタックと書いてあるではありませんか。瞬時、われを疑ったのですがその通りでした。5階以上は各種テナントが入っておりました。午後6時近く、知的でこざっぱりした若者たちが、テニスや水泳、あるいは縄のれんへと散って行きました。成果品の納入のため、一部セクションで若干名が残っての残業のためか、明るい室内照明の光が窓から漏れていました。一階エントランスホール脇にはミニギャラリーがあり、一応名の通った絵画などのほか、特別企画としてボストン美術館から里帰りした版木を用いて刷り上げたオリジナル浮世絵展が開かれており、通行人が足を止めたり中には数人の人が熱心に見入っていました。ビルの管理人に聞きますと、本当はキタックの自社ビルなのですが、わざと目立たないように名乗らなかったとのことです。等々…。でしたが急に電話の呼び出し音がけたたましく鳴り、初夢から醒めてしまいました。
ここからが現実。世の中がいろいろと移り変わる中で…(以下略)」以上が平成5年1月の社内報の巻頭の一部である。
決して、この通り実現するとは思わなかったが、平成7年11月、本社ビル新築の際、施工業者の鹿島建設の勧めもあって美術館を別棟として建設した。「正夢」である。
悠々と流れる信濃川の川面に、青く映え雄姿を伸ばす私の会社の本社が入る技術士センタービル。本館であるこの建物と長さ12メートルの橋でつないだコンクリートの長方形の建物、知足美術館は一枚の絵のようなコントラストを演出している。
企業は少しずつ発展していくにつれ、その社会的責任が大きくなる。そこで企業規模に合わせて社会に貢献するのは当然のことと私は思っている。この事は私どもに与えられた義務であるとの考えから本社移転を契機に設けた。所蔵品はそれほど多くはないが、これまでに入手した会社の所蔵品、会社に関係する方々、賛同してくださった知人による寄託品などである。一般的に個人の所有する美術品が世の中に公開されることは稀である。それらの美術品を常設展示し、社内外の方々の心にゆとりと潤いを生み出すことができればと考えている。この美術館の誕生で、良いものはだれでも見ることができるという、新潟の新しい環境づくりに役立てたら望外の喜びである。常設展だけでなく、県内作家や芸術を志す若手作家の展示の場としても、また蒐集した資料を展示し、忘れられかけた郷土の先達の足跡を振り返ることも大切なことだと思う。また、美術のみならず、私どもの業とする技術分野の展示、特に科学技術に関する展示にも積極的に取り組みたいとも思う。
美術館と名乗るのは恥ずかしいくらいの、壁面が50メートルを少し超える程度のわずかなスペースの展示場である。創画会の平松礼二画伯が私の趣旨に賛同して下さった。画伯との話は美術館の名称に及び、知足美術館とすることにした。建設工事が始まって間もなく、「知足美術館」と「吾唯知足」と揮毫して下さった。画伯の美術への情熱と芸術の一層の普及発展を願ってのことだと感謝している。
オープンは平成8年5月8日として、BSN新潟放送の好意により、第1回BSN所蔵品展(日本画)を企画した。なおその時、平松画伯はオープニングセレモニーに出席できず、残念がっておられた。常設展のほか、新潟県作家展や、私個人が無理に借金をして購入した歌川広重の保永堂初版の東海道五拾三次、ボストン美術館版木による絵なども展示した。これからは余暇過剰の時代、そんなことに対しても効果あるこのような企画を細々でも良い、長く続けて行けたらと念願している。
個展では五十嵐敏雄展、それに新潟大学書道科の書展も行った。平成9年に入って、玉川大学芸術学科教授梶原新三先生のテキスタイルデザインによる染色展、それに第2回BSN所蔵品展(洋画)も開館一周年記念企画展としてBSN新潟放送の好意で開催した。各界の皆さんが好意的に協力してくれることに感謝している。
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7月 18th, 2009 — 7:06pm
現在日展でも著名な洋画家となった本間ケイさんは、昭和50年代初め、しばらく私の会社でトレースや彩色のアルバイトをしていた。本間さんの先生である笹岡了一画伯の展覧会が大和デパートで開かれるという電話をもらったので行った。そこで新潟日報の挿し絵に使った護国神社と良寛堂の絵を買い求める。わざわざ本間さんがわが家まで額の取り付けに来てくれた。
その後、旧京都市資料館に保管されていた土田麦僊の素描、水彩などが売りに出される。本当は新潟県立美術博物館が買う予定もあったという。たくさん欲しいが、三人の舞子のうち頭部だけのものと、大原女だけで我慢した。家にも、養父が所蔵していた美術品は結構あり、特に終戦の安中連隊解体の時、町の素封家のおかみさんから頂いたという狩野芳崖などは絶品である。このほか小林古径や石塚仙堂なども同様だ。
やがてバブルと呼ばれた時代に入る。絵がよく売れるらしい。売れるということは値が上がる。私のところへ土田麦僊を持ち込み、岩田正己、伊東深水、大矢十四彦の小品と交換してもっていった画商もいる。これでも商売になった時期である高値安定となっていたが、何でも売れるというのではなく、やはり、物故者や有名作家のものである。その時々、いいなあと思うもので、金額的に買えるものを結構買ったように思う。昭和63年、平島で会社を増築すると、絵を飾る壁面スペースが多くなり、会社の10周年、15周年などの記念に、会社として少しずつ購入した。質が良くて安いものも購入して、社員の情操面で役立てようと思うようになった。私自身、絵を見ていると、その中に吸い込まれて行くような気がして和む。しばしの間の別世界である。
Comment » | 美術に興味を持って
7月 17th, 2009 — 6:59pm
商売を始める前の私は、美術にはほとんど関心がなかった。時折、開催される巡回の展覧会などが来ない限り、興味を示さなかった。比較的小さな時、田舎の小学校で栗の絵を描いて金紙を張ってもらった事や、どこかの展覧会に出してもらったくらいであった。習字も展覧会に出品するため、その選手として稽古したことはある。しかし、成長するに及んで、左利き「ギッチョ」が災いして上達はしなかった。奥の手の左手を使えばいくらかはましであった。
高校に入学すると、芸術で音楽か絵画の選択になる。音楽は美人の村山先生が教えているため人気があった。絵は比較的競争率が低いが、そういう意味でなく、やはり好きだったので絵画を選んだ。絵画といっても、鑑賞論であり、三浦文治先生が教えてくれた。三浦先生は東山魁夷画伯と同期で美術学校出身の日本画が専門だが、運悪く宿直の時、学校が火災になった。本人の失火ではないが、責任を取らされて転勤になった。「青空ポン太」というあだ名を持ち、花鳥の絵が得意だったと聞く。授業中に「君たちは芥子の花を栽培できないだろうが、僕は、絵描きだから少しは可能だよ」と言っておられた。そのころ、麻薬の原料なのに、画家の題材用として若干でも栽培が可能だったかどうかは疑問が残る。それにしても、素人が見ても、先生の絵は爽やかであった。平成8年、新潟大和で先生の回顧展が、新潟高校同窓会有志で開催され、人気を博し完売した。
学生時代にはフランスから松方コレクションが返還となり、西洋美術館が誕生した。印象派とロダンの像にひかれて、上京のたびに通ったことを思い出す。このころは、モネの睡蓮に魅せられ、ロダン彫刻に陶酔し、そこで鑑賞できるものはすべて、頭に吸収できる年代であった。卒業後も会社時代を含めて、時間を作っては展覧会に通うようになった。今、考えると何を見ていたか、良く覚えていないが、県庁時代はやはり、上京の際の列車待ちを利用したりした。そんなこともだんだん忙しくなると思うように行かなくなった。なぜ、東京にだけ美術館が多く、新潟にはないのだろうと思ったものだ。
県庁退職後は特に忙しくなり、一時すっかり美術鑑賞を忘れていたが、昭和49年、お中元を買い求めるため訪ねた東堀のイチムラデパートで見つけた鯉の掛け軸が何となく気に入り、十万円くらいだったと思うが、外商を通じてある時払いの催促なしで購入した。10円といえば、当時30歳代の中堅サラリーマンの1ヵ月分の給与より多かったと思う。買ったはいいが、作者の名を聞くのを忘れた。有名人だろうから誰かに聞けば分かると思っていたが、その後イチムラデパートが新潟から撤退し、ほかの画商に尋ねても答えが返ってこない。無名の作家なのだろう。それでも上手だ。毎年5月にこれを床の間に掛けるのが楽しみである。
昭和53年、新潟三越がまだ小林デパートといっていたころである。私は、デパート巡りが大好きで、ふとしたことから美術部の売り場に入った。現代陶芸展などと銘打って焼物を20~30点並べていた。
このころは焼物の知識など皆無である。ショーウインドウの中に大きな絵付けした六角皿があった。柿の枝に鳥が止まり、枝についているわずか一つの赤い柿の実を眺めているのである。題して「木守」。この時期まで色絵などという専門語も知らなかった。もちろん高い値段がついている。これを25%引きにして、しかも適当な分割ができないかと尋ねたが、答は「ノー」だった。東京芸術大学学長で、間もなく人間国宝になる人だという。仕方なく諦める。
そのころ、よく通っていた古町にあった「味くら」という食べ物屋兼飲屋に行き、そんな話をしていると、「私が話してあげる」と女将が言う。「恐らく、それくらいは値引きするでしょう」と言う。あてにしていなかったが、翌日デパートから電話が来た。常務である責任者が直々に外商員を連れてくる。ここで話は成立するが、考えてみると買わなくてもよいものを買ってしまった。藤本能道先生の作品である。恐らくバブル期には購入価格の20倍くらいにはなったのであろうか。売らずに大切にわが家の宝物としてとってある。こんなことがあってもさっぱり、それ以上は興味が沸かなかった。
(「華甲に想う」より)
Comment » | 美術に興味を持って
7月 16th, 2009 — 2:49pm
華甲、いわゆる還暦から早いもので10年、ついに古稀を迎えたと思っていたが、それももう2年前となり、今年6回目の干支が廻ってきた。
「誰がそんな年に?」と自問したところであるが、60歳からの10年は本当に短かったように思う。父母達の時代と違い、今でも壮年と称したいのである。そんな時、誰が考えたか分からないが、便利な計算式がある。年齢に「0.7」を掛けると良いと言う。70×0.7=49、つまり49歳である。自分の現在の体力を考え、それも理窟かなとも思っていたが、先日、所属する中部地方の経済同友会のセミナーで福井大学の松本建一先生のお話を聴き、そうでないことに気が付いた。現在では大学卒の22歳が27歳、且つての定年55歳が67歳と伺った。何のことはない、ゴム紐が間延びしたのと同じことなのである。
同期の99パーセントが第一、第二の人生を卒業した。残り1パーセントの一人として商売をやっている。引退したいが事情が許さない。もうちょっとだけ頑張らなければならない。今、大切にしなければならないのは、唯一健康である。30歳台で痛風の発作があり、この病と上手に付き合ってなんとか60歳まで来たが、ついに糖尿病の疑い有りとなった。その時正直なところ、一瞬目の前が真っ暗になった。これで唯一の楽しみの酒も終わりである。専門医に相談せよと言われたが、面倒くさいので酒を控えることと、食事を減らして体重を落とすことにした。朝は味噌汁1杯、昼はトースト1枚、夜はフリーだがしばらく我慢して禁酒を実行した。我慢することは本当に辛かった。40日目で全て正常に近い数値を得た。ある程度の晩酌も許され、甘い言葉に乗って同じことを繰り返しかねない。宴席では蒸溜酒を若干いただくほか、禁酒を続けること、体重は9キロほど減り、更に約3ヵ月後、トータルで15キロ減った。衣服を詰めるのは一騒動だった。
考えてみれば、痩せるまで1升瓶4、5本を腰にぶら下げていたのである。そこで体重コントロールを続け、糖尿病の薬のお世話になるようなことは一生避けたいと思っていたが、やはりこの10年、酒のせいか時間の経過とともに少しずつ体重は増えたが、行きつけの医者の所にいる看護士さんからは「許容体重を越えることはないですね」とほめられる。しかし、最近は気のゆるみのせいか少々リバウンド気味である。
12年前、還暦の時に60歳までの想い出を「華甲に想う」にまとめたのは、晩酌をせず長い夜をすごさねばならない辛さを紛らわすために、時間つぶしのように文章を書き始めたことに端を発する。そして、古稀を迎え、その後の10年を書こうと机に向かうが筆が全く進まない。10年前は記憶だけで書けたが、時系列が定かでない。その上、人の名が思い浮かばない。そんなことから且つて書いたもの、アルバムなどをめくる。過去の莫大な資料をめくっているうちに見つからず、本当に面倒くさくなってしまう。そんなことから、古稀までの10年間の記録をまとめようとしたが不可能に近い。その時々の簡単な記録、そして考え方や判断など、その時の精一杯のことが文字として残っている。改めて文章書きをせずにそれを一括りにして最近の考え方などを加え、文字通り「手抜き」だが、社業や私自身については「私のふたこと、みこと」、技術士会での活動を「衣錦尚絅(いきんしょうけい)」にそれぞれの本にまとめてみた。
世間では「ブログ」なるものがあると聞く。日本人の一日のブログの投稿(アップロード)は世界一の数を誇るそうだ。「若者もすなるブログといふものを、老いてもしてみむとてするなり」という気持ちで、今までに書いてきたことなど、改めて整理し掲載していきたいと思う。

60歳からまとめた本の数々
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