Category: 蒼き大地-中国-に魅せられて


最初の訪中 2

7月 26th, 2009 — 1:16pm

 朝鮮戦争の頃からよく「人海戦術」という言葉が使われていたが、文字通り、人を海のごとく使用するのである。この人民公社では用水路の改修を人海戦術で行っていた。老若男女皆、スコップをもって。但し土工量の出来高は極めて悪い。約3分の1位の人員が腰をおろして談笑している。これでは「大躍進」でもうまくゆくはずないと思った。
 昼食後、人民公社の幹部から現況の説明を受ける。我々のような見学者が大勢訪れるのであろう。説明慣れした幹部の一人が、いかに模範的な公社であるかを強調する。続いて、素晴らしいジャスミンの温室を見学する。ジャスミンはいわゆる「華茶(花茶)」の原料となる。その後、2階建てのブロック積みのモダン住宅の見学となったが、これは日本にある住宅展示場のモデルハウスらしく、「住人」がなんとなくよそよそしい。また、家具類は指でさわっても埃がつく。恐らく済んではいなかったと思う。プロパガンダとしてあまりよい気持ちはしなかった。何故、こんなところで組織としての虚栄心が必要なのだろうか。
 上海へ戻り、公社に付属する農村工場を視察した。電球工場であったが、手工業の生産性は極めて低いようだ。それでも純粋農業よりは現金収入があり、恵まれている。昭和22
~23年頃、住んでいた新潟県新発田市の輸出向けクリスマス用電球製造工場を思い出した。工場長の長時間に及ぶ説明を聴き、女性労働者の手作業を見学し、飽き飽きして退散した。
 次に大企業の視察で国営の模範的と言われる機器工場を案内された。私は機械部門の専門家ではないが、少なく見積もっても当時の日本に比べて30年は遅れているようだった。しかしそこには、すでに生産性の向上の為、報償金制度も取り入れられていた。工場長は環境問題も重視しているといって、廃水処理施設まで案内してくれた。モニターとして金魚など観賞用の魚が利用されていたのは面白かったし、その時点ではグッドアイディアであるとも思った。
 急な私達の希望で上海市科学技術委員会幹部と懇談することができた。未だ文化大革命終了後、3年しかたっていない為か、四つの現代化の最重要課題でありながら最先進地の上海ですら、私達の意図する科学技術交流の話題には乗り切れない状況のようであった。「これからの交流を希望する」で全てが終わった。やはり上海ですら改革開放の意味が充分に理解されていないのか。それとも、四人組問題がようやく終結直後の緊張感のせいだったのだろうか。
 南京では大躍進が終わってソ連が引き上げた後、自力更生の第一弾である南京大橋を渡り詳細に工事の説明を受けた。中蘇友好のシンボル武漢大橋がモデルといっても、随分すごいことを単独でやり遂げたものだと感心した。とうじとしてはビッグプロジェクトである。物資も払底していたに違いない。橋梁のシューに木材が使われていたのが印象的であった。
 南京郊外の江蘇省農業研究所を訪問した。当時としては珍しく結構ハイテク機器が多くあった。日本に機器も若干あったが、中国製独自の測定器が多数である。力の入る部分は文化大革命間もなくでもかなり進んでいたようだ。面白かったのが害虫標本である。これを現場で農民に示し、害虫駆除に役立てていたのである。
 その約半年後であるが、黒龍江省の同様の部署を訪問する機会を得たが、さらに最近の技術が取り入れられていた。進んでいたのは時間の問題か、それとも北の黒龍江省と南の江蘇省の地域的差か熱意の差か、今でも疑問が残る。
 この時のミッションには電気・電子、機械、化学、金属、鉄道、建設、農業、経営工学、応用理学などほとんどの分野のものが参加した。この最初の訪問のあと、数回のミッションが派遣され、現在のような中国への技術士派遣の礎となったものだと思う。
 この約半年後、再び中国を訪れるとは予想もしなかったが、何もかも珍しい改革開放に入った新たな中国の十数日の旅を終え、再び香港に入ったときは、何となくほっとしたのが最初の訪中の偽らざる実感であった。


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最初の訪中 1

7月 25th, 2009 — 2:40pm

 中国を初めて訪れたのは1979年の1月である。文化大革命がようやく終焉を告げ、若干ではあったが解放政策のニオイを感じるころでもあった。とはいっても、通常の訪中ルートは香港経由で、香港・中国国境は極めて厳しく、仮設の木橋をスーツケースを引いて入国(入境)した。香港からの入国の際は、イミグレーションの係官は全く無表情をよそおい、真新しいパスポートを繰り返しめくっていた。その時一瞬、「竹のカーテン」といわれていたことを思い出した。
 そして緊張感を味わいながら、現在までの解放政策の未だ農地だったところを通り抜け広州への列車に乗った。駅頭には人があふれ、また私どもはすべて民衆から隔離されての行動である。訪中の目的は、(社)日本技術士会での中国科学技術事情調査で、観光はもちろん上海市科学技術委員会の訪問、当時流行の農村工場や、農業化学院、人民公社のモデル、あるいは自力更生による南京大橋などの建設現場、「技術」といわれるひと通りのメニューに沿って行動した。
 そんな馬鹿な話があるものかと子供心に思っていたが、小学生のころ中国には蚊もハエもいないなどと、先生が熱心に説明していた。しかしながら訪れた真冬の状況を見てもそのようなことは全く信じられなかった。どこを訪問しても、党の書記が必ずおり、比較的高齢の人が多く、頬杖をついて目を閉じてうさんくさそうにしている。女性幹部もたくさんいたが、現在活躍中の中国人幹部女性からは想像できないほどクールで無表情だった。上海の有名な錦江飯店も含めて、ホテルの部屋のドアはカギをかける必要はなく、現金、カメラなども机の上に投げ出していた。とにかく、外国人にからむ犯罪は重罪だった。今と違って庶民の間では外国人は別世界という観念が極めて強かったように思う。
 現在では、チップは当然として受け取るが、当時は、ボールペンを親しくなった若い男性服務員に無理やり渡したところ、困惑した様子でやっと受け取ってくれた。それでも気になったので、服務員室を訪ねてみたら、そのボールペンをどうすべきか、四、五名の小班で討議の真最中だった。観光で訪れた蘇州はさすがに古都の面影を残し、文化大革命の跡は少しずつ修復されつつあった。その歴史も古く、遠く六朝時代にさかのぼる。寒山寺も開放され、「楓橋夜泊」つまり「月落ち烏鳴いて」の石碑は、拓本取りの作業が行われていた。一枚買い求め、帰国後、戦前から家にあるものとくらべてみたが、よく見ると若干の相違があった。恐らく破壊され、新しく製作されたものなのだろう。(その後訪れたときは、石碑の摩擦を防ぐためガラスケースで厳重に保護されていた)この石碑のほか、近舟の筆による「寒山拾得」の石碑、清の光緒二年の銘のある梵鐘、五百羅漢像などが世界的に有名である。これらは世界的に有名であるかどうかは解らないが、日本人には馴染みがある。
 訪中目的は観光ではないが観光の合間をぬって、蘇州郊外の人民公社を訪れた。人民公社は日本の村に相当する行政単位であり、行政権は勿論のこと、警察権までもっていたようだ。昼時、マリンブルーの人民服を着た若い幹部が、「白酒」のビンを我々に見られないように後ろ側に隠し、すれ違って行った。文化大革命が終了した直後でも、やはり幹部はそれなりに特権があったようだ。
 先方の招待といっても名ばかりで実質当方が一切負担することは納得していたが、出される豪勢な料理には眼を見張った。大きな新鮮な鯉を丸ごと揚げたものなど10数品の昼の定食である。私はだれにも言わなかったが昼食直前、用を足した。当然、汲取り式であったが、肥溜めが2メートル位下にあり公社員が杓子で一生懸命汲んでいるではないか。食堂へ帰るときガイドに尋ねると、それは養鯉用のエサにするのだとのこと。さすがにいくら美味しそうな「鯉」を見ても箸をつける気には全くなれなかったことはいうまでもない。


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先人の思い出 ~ 佐野藤三郎さん 2

7月 24th, 2009 — 12:45pm

 1982年7月だったと思う。第三次JICA調査団に参加のため、私一人が新潟駅から当時の特急「とき号」で出発した。家内が駅まで見送りに来た。ふとホームを見ると、亀田郷土地改良区のユニフォームつまり作業服姿の佐野さんが一人で立っておられる。「おー、おはよう」と声が。「おはようございます。これから行って参ります」「おーそうか、ご苦労さま」。誰かを見送りに来られたのだと思い込んでいた私は、出発される方がまだ来ないのだと思っていた。発車間際になってもそれらしい人はいない。動き出した「とき号」の中の私を見て、手を振っておられる。私をわざわざ見送りに?・・・(そうか、私ごときにそんなにまでして下さって)。ようやく気付き、青ざめた。もっともっと丁寧に挨拶をしてお礼も申し上げるべきだった。黒龍江省宝清県の招待所へ着いて、早速おわびの手紙を出した。片道1週間かかる。2週間経つと、佐野さんから葉書が届いた。「お気遣い無用」とあった。佐野さんの大きさにふれた1シーンである。
 また、1993年ころだったと思う。NHKが私を何回も取材し、北東アジア特集の長時間番組を制作していた。地域間の技術交流について佐野さんを訪問して、話をするよう要請が入り、亀田郷土地改良区を訪ねた。玄関に着くと、NHKのカメラが待っていた。しかし、私の歩き方が早過ぎて、撮影できなかったらしい。もう一度と要請され、再び車を玄関へ乗りつけた。やっとオーケーが出た。佐野さんは部屋でニコニコして迎え、「中山さん、よう来たね」と言って手を差しのべて下さった。佐野さんと理事長室で技術交流の話をしたが、この時も、カメラとのタイミングが合わず、申し訳ないがもう一度と言われた。拡大解釈すれば、これこそ「やらせ」ではないかと苦笑いしているのだが・・・。技術交流が緒についたばかりで、マスコミもそれなりに気遣ったものと思う。
 今から20年余り前に佐野さんが黒龍江省にいらした時、新潟県との技術交流が話題となったというので、帰国後、佐野さん自身も気にかけて何回も電話を下さった。また、佐野さんからの電話は海外技術協力の話だけでなく、佐野さんの政策上の話、人物に関することなども「どう思うか」と、その道に明るくない私にも相談を持ちかけられた。
 1970年から80年初めにかけて、技術協力に参加した頃は周囲から異端児扱いされたり、なぜ?と言われたりすることがしばしばあった。いくらかその難儀な体験に直面し、立ち止まることもあったが、私の体験などは、実に取るに足らない程度のことなのだ。
 それよりもさらに以前、二国間交流そのものが極めて困難な時代から将来を夢見ながら、信念をもって努力された佐野さんにここで改めて敬意を表したい。


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先人の思い出 ~ 佐野藤三郎さん 1

7月 23rd, 2009 — 12:42pm

 最初から中国に自ら進んで熱心に出掛けたのではない。中国と私の縁を強く結んで下さったのは、佐野藤三郎さんであった。佐野さんは、私の人生を大きく変えた人のひとりと言っても過言ではない。
 今日は佐野さんの思い出の一部をご紹介する。
 1979年、第一次中国技術ミッションに誘われ、訪中したのは、中国文化大革命(1966年から10年続く)が終わりを告げてから、間もない頃であった。私が社団法人日本技術士会に入会して6年ほど経った時のことである。
 文化大革命後の新しく再出発した社会主義中国の概要を駆け足でながめた。その同じ年、新潟県日中友好協会長の佐野藤三郎さん、理事長の奥村俊二さんから中国の黒龍江省での農業基本建設技術協力調査に誘われた。
 日中国交が正常化したといっても、まだまだ未知の部分が多く、今なら笑い話で済むが、私の父など共産主義国へ行って感化されて帰国するのではないかと心配してあまり良い顔はしなかった。それも当時としてはやむを得ない状況であった。
 この頃、中国への窓口は、佐野さんがほとんど一手に引き受けておられた。というよりも中国に対して、高崎・劉ルート(いわゆるL・T簡易)のほか佐野さん以外にコネがなかった。佐野さんは決して儲け仕事ではなく、ただただ日中両国の友好が続くことを願ってのことであった。特に最初の頃は大手商社、一般の会社、個人を問わず中国との口利きをすべて佐野さんにお願いしたにも関わらず、ルートが出来ればあとは佐野さんに対して知らん顔をするというケースも多くあったようだ。
 奥村さんが私を誘った理由は、私が地質とダムの専門家であったからである。最初、奥村さんにはある大手会社の技術者に意中の人がいたようだが、その人が勤務する会社がゴーサインを出さないという事情があり、その挙げ句、私に白羽の矢が立ったようだ。
 参加するそのミッションの団長は佐野さんだった。視察旅行ではなく、海外業務は私にとって初めてで、特に共産主義国の中国であるということで、最初はとても緊張した。佐野さんとは初対面であったが気さくで、人に対し威張らない。そのとき偉い人ともたくさんお会いしていたが、佐野さんは相手の名刺の肩書きで動く人ではないとお見受けした。佐野さんと帰国途中の北京で中国対外友好協会の主任 孫平華さんにお会いした時もそうであった。
 ミッションは佐野さんが中心となって、1976年、20人ほどでかつての満州北端の三江平原を訪れた。この三江平原農業基本建設技術協力団に技術専門家として加わったのが佐野さんとの出会いであり、私にとっての国際技術交流の始まりである。その後、このプロジェクトは並々ならぬ努力の甲斐あって、2年後にODAつまり JICAベースになった。F・S作り(事前調査に行う妥当性)のため最初の数年間は私も1回3ヶ月以上の滞在を数回にわたり経験した。
 最初の頃の佐野ミッションは、準国賓待遇である。どこへ行ってもSPがつく。中国側の農業の現状の概況説明が黒龍江省佳木斯市(ジャムス市)の招待所「佳木斯賓館」で約一週間続いたが、団長として聞かなくともいいような細かな技術的な問題まで熱心に耳を傾けておられた。佐野さんはその後、日本国内に予定があり、ひと足先に帰国されることになった。私も帰国後、10月中旬から南米行きが決まっていたので、愛媛大学で地理の講義が待っている梅津正倫さん(現、名古屋大学教授)と、佐野さんに同行して帰国した。この時、佳木斯から哈爾濱(ハルビン)、哈爾濱から北京へと長い列車の旅が続いた。もちろん、佐野さんのレベルに相当する中国側の随員と通訳はいた。
 この列車の長旅では、さすがに中国側との長時間の通訳を入れた会話は疲れる。自然と日本側、中国側ともそれぞれで話す時間が長くなる。地理学の資料作りで車窓からの撮影に取り組んでいる梅津さんは別で、佐野さんは私にご自分の今までの経験などを話してくださった。私の想像では、相当な苦難の道をたどって、現在があるものと想像していたが、決してそういう話はなさらない。これからの日本のあり方、世界の中の日本、とりわけその中で日中関係の重要性を説いておられた。地球の裏側の国々といくら仲良くしてもいざという時は頼りにならないともおっしゃった。当時は環本海とはいわず、新日本海時代といっていた。さらに私に対しては、まだ小規模の会社なのにそれを人に任せて参加してもらったという旨の謝意を下さった。さらに将来予想であるが、「あんたを見ていて分るんだ。貴方の時代が来る。それに見合うだけの人間に成長しなくてはならない。ある程度になるとよくとんでもないことを目指すものがいるが、そんなことでは良くないよ」と。私は「そんな意思を持ったことはないが・・・」と言うと、「会社はやがて大きくなるよ。その時、慎重さが大切であることを言いたいんだよ。他人の話に動じてはいけない」と説かれた。これらは佐野さんの買いかぶりだと思うが、さらに私に対しての人生のあり方など親切なアドバイスをして下さったのが30年以上経過した今でも脳裏に焼きついている。


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技術交流について考える。

7月 22nd, 2009 — 12:19pm

 昨日の「中国との交流のはじまり」では、少し本題から逸れたままとなったが、本題の技術交流の話に戻ろう。
 交流課題の協議、技術交流では相手の要望、意思の確認を充分に行ってさえも、期待感を与えすぎることが多いので、不都合なことなどははっきり断り、あいまいな妥協などはしない。そして、日本側も皆が国際技術交流の意義を充分理解した上で行動する。日本の常識は必ずしも中国の常識ではないからである。
 交流の当初は、中国側は国営企業の工業分野での新製品などの技術開発を求めていたが、数年前よりそれは個々の企業が行うことである事、莫大な時間と経費を使った研究開発ノウハウを得るには費用を必要とする事がようやく解り、現在は専ら社会基盤整備に関する分野に交流が移っている。日本では普通、誰でも当たり前と思っていることが、中国の人達に理解させるのには相当苦労をすることがある。中国の技術交流の参加者は省、市県、国営企業、民間企業の多岐に渡る。その人数の多くはごく限られた官庁・国営企業に偏重しているが、携わった中堅技術者が取得した技術を取り敢えずは周囲に伝えればよい。それがまず、技術交流だと考えて取り組むのがよい。
 毎年、次年度の交流課題を協議し、相互に訪中、訪日としている。このほか、自費訪日、訪中もあり、これはその都度お互い承認する。この場合の訪日は予算を組んでいないため、その経費の対応に苦慮したこともある。また、交流課題にない技術専門家の訪中の依頼もある。要請に応じられる技術者、経験技能者がいない場合の対応や他地域からの応援体制なども問題である。国際旅費、滞在費は先方負担の専門家派遣を除き、互恵平等の原則での国際旅費を負担し、国内経費は相手方の負担としている。また、要請される技術者の訪中が可能かどうかも課題である。技術者の中国への派遣は第一線の企業内技術者を要請されることが多く、その場合雇主の理解が必要であるし、研修の受入れでも問題が生じることがある。
 中国ではこのような経費は、すべて予算化された公費を用いているようだ。我が国の一部で実施されているように行政と協力した交流が必要であることは言うまでもない。私の経験では、行政は地味に活動を積み上げればそれを認めるし、活動に対して好意的に対応してくれる。従って行政に頼り過ぎず、むしろ専門分野で行政をリードするような動きが必要であろう。そして、これからは、中国のみならず、東北アジア諸国の技術者が手を取り合って共通テーマに取り組むべきことが理想であると思う。
 かつて、我が国の日本海沿岸の自治体は経済面で「競って対外交流へ」抜けがけを続けてきた。それなりに成果を説く人もいるが、実際は何の意味があったのだろうか。うまく相手に利用されたことも多分にあったと思う。こんなことから互いに情報交換しながら、地域の特徴を生かした役割分担を行うとともに、「多極分担」し、決して無意味な分散にならにようにしなければならない。そして連携への合意を行う必要がある。
 それに対して技術協力はリスクが少なくなりやすい。まず人的交流、技術交流、そして経済交流へと少しずつ、時を重ね、深めていく過程をとることが必要である。地域の交流は民間だけでなく自治体と一体で無ければ効果が少なく持続性に乏しい。さらに自治体や地域が行う協力は国と国の大規模なプロジェクトやODAのはざまを埋めるきめ細かなものが大切である。これを活発にしたら技術協力の効果が大きくなると思われる。そこで、さらなる政府の積極作を期待したいところである。技術交流も姉妹都市の連携の延長で実施するとやりやすい。同じ技術系等の団体との交流に取り組むと、それがやがて他へ広がるからである。留学生交換・受入れ・企業間の提携・ノウハウの提供、合弁等も大切である。
 国際間の技術協力などでも「国際化」について、理念の詰めが必要である。「国際化を進める理由」を深く考えなければ、自治体は当然のことながら民間団体でも行き詰まりを生じるし、実行の段階で批判を生じかねない。最低限、国際化「ミニマム」が必要だと思う。つまり、それは誰もが「国際化に関心を持つこと」が最低条件である。
 第一に、アイデンティティを掘り下げ、いわゆる「地元学」の構築をすること。
 第二は、内なる国際化を求めるため異質な文化と共に生きる知恵を持つこと。
 第三は、視野を広く世界に向けること。これらの認識を持って決め細やかな技術交流を続けていく必要が大切であると思う。人類存亡に関わる地球環境などの大きな問題が目の前にある今日、さらなる交流への道が極められなければならない。


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中国との交流のはじまり

7月 21st, 2009 — 12:03pm

 地方公務員をなんとなく辞めて、商売をはじめて6年ほど経った1979年、ふとしたキッカケで中国との技術交流が始まった。この経験が私にとっての国際交流の礎となり、後の人生をより豊かななものにしてくれたと思う。そこで、美術館の話から少し離れて、中国との技術交流について数回に渡って掲載したい。
 嵐が吹き荒れた10年以上もの中国の文化大革命も終焉した後、旧満州最北部の三江平原(さんこうへいげん)プロジェクトに参加し、長い時は三ヶ月も中国の技術者と共に暮らし、荒野湿原の荒廃地の開墾を夢見た。しかし、その頃の日本海は厳しい冷戦構造の中で、ソ連邦、そして北朝鮮間に、まさに政治的バリアが存在しており、日本の世論も中国に対しての技術協力に決して好意的ではなく、これに参加することを周囲の者から異端児扱いされたり、得意先からも「何故、共産国へわざわざ」と言われたりした。さらに、冷たい態度も何回となく身をもって体験した。そのようなことを少々経験した私などまだまだ甘かった。それよりも前に、往来そのものが極めて困難な時代、「バリア日本海」の「氷解」を信じ、技術交流に努力された先人がいた。その方々を知るにつけ、私の多少難儀な体験など、些細なものであったことを改めて知り、それらの先人に心からの敬意を表さずにはいられない。
 1980年代中頃に入り、再び別の角度での技術交流が始まった。黒龍江省政府から技術交流が提案され、亡くなった津田禾粒新潟大学長を含む数名の訪中の招請を受けたが、出発直前に、あの不幸な天安門が起こり、訪中を中止し、その間約2年間の空白が生じた。その後、先方の要請もあり、以前の主旨に沿って、経験技能者も含めた広い範囲の新潟県対外科学技術交流協会を設立した。細水長流を原則に協議書を黒龍江省と政府が作った民間機関と調印。この時期から広い意味で日中民間技術交流が始まる。技術者派遣、技術研修生受入れのほか、双方で合意した特定課題を含めての技術交流は、最近までに派遣、受入れを合わせて80回以上に及ぶ。
 その間に、三江平原以来の黒龍江省関係機関等との友好関係、そして老朋友が多くできたことから、個人的に技術業務の合弁や独資の会社を設立した。これらは、言うまでもなく第一が中国への支援が目的である。中国で目指す小さな政府、これに国営企業の合理化を目指すリストラが始まり、その目的に沿うよう努力したのである。またAOTSなど政府系の研修機関を通じての技術研修生を受け入れ、さらに独自で就労技術者を受け入れ、大学院留学生の研修、それにアルバイトなどへの協力も結構引き受けた。これらにより、両国技術交流の一層の発展成長を期待するという願いであった。
 しかし、現実は期待と裏腹に、なかなかうまく行かないのが正直なところである。オーバーかも知れないが派遣されている技術者を、文字通り手塩にかけて教育する。すると、ある日突然、中国の出身機関から幹部へ登用すると連絡が来て彼らは帰国してしまう。また、数のうちには老父母の病気や一人っ子政策のツケによる登校拒否(いや、出社拒否といった方がいいのだろうか)などが生じる。その場合は、本人の意思に反して帰国することになる。何の為の技術交流なのだろうと思うこともしばしばであった。


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