Category: 美術に興味を持って


美術館の誕生

7月 19th, 2009 — 7:08pm

 平成7年、新潟市の平島から新光町へ、本業の社屋を移転することになった。当初は美術館を作るような計画は全くなく、ただ、移転地を探そうと思っていた時である。平成5年、正月の社内報で次のようなことを書いた。
 「信濃川本川大橋西詰の新しくできた新光町というオフィス街。下手の県庁から政府機関の合同庁舎などが並ぶ一角に、とりわけ大きくはないが、周辺の環境にマッチした8階ほどのビルが控えめに建っていました。ビルの名を確認のため、真下まで近づき見上げますと”科学技術会館“と読むことができました。一瞬特殊法人の建物かと思ったのですがどうもそうでもないらしく、テナントの看板を見ますと4階まではキタックと書いてあるではありませんか。瞬時、われを疑ったのですがその通りでした。5階以上は各種テナントが入っておりました。午後6時近く、知的でこざっぱりした若者たちが、テニスや水泳、あるいは縄のれんへと散って行きました。成果品の納入のため、一部セクションで若干名が残っての残業のためか、明るい室内照明の光が窓から漏れていました。一階エントランスホール脇にはミニギャラリーがあり、一応名の通った絵画などのほか、特別企画としてボストン美術館から里帰りした版木を用いて刷り上げたオリジナル浮世絵展が開かれており、通行人が足を止めたり中には数人の人が熱心に見入っていました。ビルの管理人に聞きますと、本当はキタックの自社ビルなのですが、わざと目立たないように名乗らなかったとのことです。等々…。でしたが急に電話の呼び出し音がけたたましく鳴り、初夢から醒めてしまいました。
 ここからが現実。世の中がいろいろと移り変わる中で…(以下略)」以上が平成5年1月の社内報の巻頭の一部である。
 決して、この通り実現するとは思わなかったが、平成7年11月、本社ビル新築の際、施工業者の鹿島建設の勧めもあって美術館を別棟として建設した。「正夢」である。
 悠々と流れる信濃川の川面に、青く映え雄姿を伸ばす私の会社の本社が入る技術士センタービル。本館であるこの建物と長さ12メートルの橋でつないだコンクリートの長方形の建物、知足美術館は一枚の絵のようなコントラストを演出している。
 企業は少しずつ発展していくにつれ、その社会的責任が大きくなる。そこで企業規模に合わせて社会に貢献するのは当然のことと私は思っている。この事は私どもに与えられた義務であるとの考えから本社移転を契機に設けた。所蔵品はそれほど多くはないが、これまでに入手した会社の所蔵品、会社に関係する方々、賛同してくださった知人による寄託品などである。一般的に個人の所有する美術品が世の中に公開されることは稀である。それらの美術品を常設展示し、社内外の方々の心にゆとりと潤いを生み出すことができればと考えている。この美術館の誕生で、良いものはだれでも見ることができるという、新潟の新しい環境づくりに役立てたら望外の喜びである。常設展だけでなく、県内作家や芸術を志す若手作家の展示の場としても、また蒐集した資料を展示し、忘れられかけた郷土の先達の足跡を振り返ることも大切なことだと思う。また、美術のみならず、私どもの業とする技術分野の展示、特に科学技術に関する展示にも積極的に取り組みたいとも思う。
 美術館と名乗るのは恥ずかしいくらいの、壁面が50メートルを少し超える程度のわずかなスペースの展示場である。創画会の平松礼二画伯が私の趣旨に賛同して下さった。画伯との話は美術館の名称に及び、知足美術館とすることにした。建設工事が始まって間もなく、「知足美術館」と「吾唯知足」と揮毫して下さった。画伯の美術への情熱と芸術の一層の普及発展を願ってのことだと感謝している。
 オープンは平成8年5月8日として、BSN新潟放送の好意により、第1回BSN所蔵品展(日本画)を企画した。なおその時、平松画伯はオープニングセレモニーに出席できず、残念がっておられた。常設展のほか、新潟県作家展や、私個人が無理に借金をして購入した歌川広重の保永堂初版の東海道五拾三次、ボストン美術館版木による絵なども展示した。これからは余暇過剰の時代、そんなことに対しても効果あるこのような企画を細々でも良い、長く続けて行けたらと念願している。
 個展では五十嵐敏雄展、それに新潟大学書道科の書展も行った。平成9年に入って、玉川大学芸術学科教授梶原新三先生のテキスタイルデザインによる染色展、それに第2回BSN所蔵品展(洋画)も開館一周年記念企画展としてBSN新潟放送の好意で開催した。各界の皆さんが好意的に協力してくれることに感謝している。


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美術に惹かれて

7月 18th, 2009 — 7:06pm

 現在日展でも著名な洋画家となった本間ケイさんは、昭和50年代初め、しばらく私の会社でトレースや彩色のアルバイトをしていた。本間さんの先生である笹岡了一画伯の展覧会が大和デパートで開かれるという電話をもらったので行った。そこで新潟日報の挿し絵に使った護国神社と良寛堂の絵を買い求める。わざわざ本間さんがわが家まで額の取り付けに来てくれた。
土田麦僊_大原女素描 その後、旧京都市資料館に保管されていた土田麦僊の素描、水彩などが売りに出される。本当は新潟県立美術博物館が買う予定もあったという。たくさん欲しいが、三人の舞子のうち頭部だけのものと、大原女だけで我慢した。家にも、養父が所蔵していた美術品は結構あり、特に終戦の安中連隊解体の時、町の素封家のおかみさんから頂いたという狩野芳崖などは絶品である。このほか小林古径や石塚仙堂なども同様だ。

 やがてバブルと呼ばれた時代に入る。絵がよく売れるらしい。売れるということは値が上がる。私のところへ土田麦僊を持ち込み、岩田正己、伊東深水、大矢十四彦の小品と交換してもっていった画商もいる。これでも商売になった時期である高値安定となっていたが、何でも売れるというのではなく、やはり、物故者や有名作家のものである。その時々、いいなあと思うもので、金額的に買えるものを結構買ったように思う。昭和63年、平島で会社を増築すると、絵を飾る壁面スペースが多くなり、会社の10周年、15周年などの記念に、会社として少しずつ購入した。質が良くて安いものも購入して、社員の情操面で役立てようと思うようになった。私自身、絵を見ていると、その中に吸い込まれて行くような気がして和む。しばしの間の別世界である。


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美術との出会い

7月 17th, 2009 — 6:59pm

 商売を始める前の私は、美術にはほとんど関心がなかった。時折、開催される巡回の展覧会などが来ない限り、興味を示さなかった。比較的小さな時、田舎の小学校で栗の絵を描いて金紙を張ってもらった事や、どこかの展覧会に出してもらったくらいであった。習字も展覧会に出品するため、その選手として稽古したことはある。しかし、成長するに及んで、左利き「ギッチョ」が災いして上達はしなかった。奥の手の左手を使えばいくらかはましであった。
 高校に入学すると、芸術で音楽か絵画の選択になる。音楽は美人の村山先生が教えているため人気があった。絵は比較的競争率が低いが、そういう意味でなく、やはり好きだったので絵画を選んだ。絵画といっても、鑑賞論であり、三浦文治先生が教えてくれた。三浦先生は東山魁夷画伯と同期で美術学校出身の日本画が専門だが、運悪く宿直の時、学校が火災になった。本人の失火ではないが、責任を取らされて転勤になった。「青空ポン太」というあだ名を持ち、花鳥の絵が得意だったと聞く。授業中に「君たちは芥子の花を栽培できないだろうが、僕は、絵描きだから少しは可能だよ」と言っておられた。そのころ、麻薬の原料なのに、画家の題材用として若干でも栽培が可能だったかどうかは疑問が残る。それにしても、素人が見ても、先生の絵は爽やかであった。平成8年、新潟大和で先生の回顧展が、新潟高校同窓会有志で開催され、人気を博し完売した。
 学生時代にはフランスから松方コレクションが返還となり、西洋美術館が誕生した。印象派とロダンの像にひかれて、上京のたびに通ったことを思い出す。このころは、モネの睡蓮に魅せられ、ロダン彫刻に陶酔し、そこで鑑賞できるものはすべて、頭に吸収できる年代であった。卒業後も会社時代を含めて、時間を作っては展覧会に通うようになった。今、考えると何を見ていたか、良く覚えていないが、県庁時代はやはり、上京の際の列車待ちを利用したりした。そんなこともだんだん忙しくなると思うように行かなくなった。なぜ、東京にだけ美術館が多く、新潟にはないのだろうと思ったものだ。
 県庁退職後は特に忙しくなり、一時すっかり美術鑑賞を忘れていたが、昭和49年、お中元を買い求めるため訪ねた東堀のイチムラデパートで見つけた鯉の掛け軸が何となく気に入り、十万円くらいだったと思うが、外商を通じてある時払いの催促なしで購入した。10円といえば、当時30歳代の中堅サラリーマンの1ヵ月分の給与より多かったと思う。買ったはいいが、作者の名を聞くのを忘れた。有名人だろうから誰かに聞けば分かると思っていたが、その後イチムラデパートが新潟から撤退し、ほかの画商に尋ねても答えが返ってこない。無名の作家なのだろう。それでも上手だ。毎年5月にこれを床の間に掛けるのが楽しみである。
 昭和53年、新潟三越がまだ小林デパートといっていたころである。私は、デパート巡りが大好きで、ふとしたことから美術部の売り場に入った。現代陶芸展などと銘打って焼物を20~30点並べていた。藤本能道「木守」このころは焼物の知識など皆無である。ショーウインドウの中に大きな絵付けした六角皿があった。柿の枝に鳥が止まり、枝についているわずか一つの赤い柿の実を眺めているのである。題して「木守」。この時期まで色絵などという専門語も知らなかった。もちろん高い値段がついている。これを25%引きにして、しかも適当な分割ができないかと尋ねたが、答は「ノー」だった。東京芸術大学学長で、間もなく人間国宝になる人だという。仕方なく諦める。

 そのころ、よく通っていた古町にあった「味くら」という食べ物屋兼飲屋に行き、そんな話をしていると、「私が話してあげる」と女将が言う。「恐らく、それくらいは値引きするでしょう」と言う。あてにしていなかったが、翌日デパートから電話が来た。常務である責任者が直々に外商員を連れてくる。ここで話は成立するが、考えてみると買わなくてもよいものを買ってしまった。藤本能道先生の作品である。恐らくバブル期には購入価格の20倍くらいにはなったのであろうか。売らずに大切にわが家の宝物としてとってある。こんなことがあってもさっぱり、それ以上は興味が沸かなかった。
(「華甲に想う」より)


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