7月 28th, 2009 — 7:21pm
家の向かいには「中安」という屋号の薬局があり、私と同年代の娘さんが何人かおり、名は忘れたが確か一つ下のおとなしい女の子とよく遊んでいた。銀色のバスやタヌキの絵を描くのが好きで、普段は大切にしている金銀のクレヨンを使って描いた画用紙を店の中へ投げこんで来たことも思い出す。これが淡い恋心の表現だったのかも知れない。両家の両親ともほほ笑ましく私の行動を眺めていたような気がする。昭和18年8月に妹が生まれる。新発田に住んでいた母の姉が産婆さんと共に手伝う。確かお盆の13日で、出産の手伝いの役にたったかはよく分からないが、姉がこまめに働いていたような気がする。私は妹がどうして母から生まれるのか興味を持って産室の障子に近づくたびに追い返された。
当時は、戦争の最も激しくなりかけたころ、東京では食料が底をつき父の妹夫婦、父の弟などが頻繁に、遠い村上まで訪ねて来て、食料を調達して行った。戦争が激しくなるまでは父の妹夫婦は、手広くベルト屋をやり、従兄弟たちには空気銃などを買い与え、われわれサラリーマン家庭から見ると羨ましい存在だった。私たち兄弟に離れた椿の葉を空気銃で打ち抜いて腕のよいところを見せてくれた。それ以来私は鉄砲嫌いになる。父の弟は、弁護士の資格を持ちながら、弁護士をやらず、都内で小学校の校長をしていた。少々派手好みで世田谷の和洋折衷の洒落た家に住み、教師になっているのは、給与がその方が高いからといっていた。時々書物を書き、出版されると父の所へ送ってきた。戦時中なのに、どこで手に入れたのか当時なかなか貴重品だったバナナの干物などをお土産に持ってきて私たち子供に包みのままくれた。
親類の誰彼となくやって来て、鮭のシーズンには鮭を、収穫の秋には白米や豆、野菜などを風呂敷包みやリュックに入れて背負って帰って行った。それらはその時々に頂いたもので、母は自分たちの分を減らしても、父の弟妹には惜し気もなく持たせて帰した。役得といおうか父が県の官吏で土木派遣所に勤務していたおかげで食料は結構頂いていた。米が統制になってから、子供がたくさんいるわが家には、時々、役所や知り合いから穀物が届けられた。父が管内の出張の帰りに、若干の白米をお土産にもらって、自転車に積んだのだが、袋に小さな穴が開いていて途中路上に米がこぼれ落ち、イソップ物語のように米粒の線が家の入り口まで続いていた。母がそれに気づきあわてて、数軒先まで竹ぼうきで掃きに行ったことを思い出す。

写真 お化け屋敷から転居した庄内町の家。1997年の撮影だが、前側のアルミサッシの他はほぼ当時のまま。脇の用水がコンクリート三面張りとなって、青大将も住みにくそうである。
Comment » | 私について
7月 27th, 2009 — 6:31pm
「知足」について語るために、中国との交流の始まりを数日にわたり紹介した。中国の話はまだ長く続くので、今日は少し気分を変えて私の生い立ちについて。
私がこの世にいるということを記憶している最初は、地方官吏の父が赴任していた旧村上町である。
新潟県岩船郡村上町庄内町のある、出征して留守になっていた開業医宅の広い台所の板の間で、母の膝の上でのことである。恐らく、昭和14年のような気がする。数えて3歳ぐらいではないかと思う。
私は父が赴任していた新潟県北蒲原郡新発田町(しばたまち)竹町で生まれ、その後の転勤で村上へ。8つ上の姉と、6つ上の兄も転校を余儀なくされた。兄たちの学校は落ち着いた生垣の旧家が連なる町並みの中にあって武家の学校といわれた本町小学校だ。村上には当時、武家と町人の学校が分かれており、木柵を挟んで、用水路が走り、その上流は町人の町学校、下流が武家の本町学校だった。人口比率からいって、町学校の方が当然のことながら生徒も多く、境界の木柵を挟んでよく喧嘩をしていた。
私の記憶違いでなければ、村上に移った最初の家は通称、杉原の古い武家屋敷であった。引っ越しの際、押し入れの壁のねずみ穴を大量の栗のイガでふさいであったのが崩れ落ちたら、皆が「出た!」といって逃げたとか、月夜なのに雨の音が聞こえたとか、その他さまざまなお化け伝説が耳に入った。数週後のある日、役所から戻った父の突然の指令で、町人の町、庄内町へ引っ越したのである。その家はもう、今は見ることはできない。
移った家の学校区は町人と武士の境界からわずか数メートル町人側に入っていた。町医者の家らしく、大きくゆとりがあり、脇には用水が流れ、台所の土間には、井戸側を施した手押しポンプの井戸があり、今考えれば恐らく一段高い旧三面川(みおもてがわ)の河原の砂利まで掘って、地下水を汲んでいたものと考えられる。ときどき大きな青大将がわが物顔で用水を横断していた。裏庭も結構広く栗の巨木も数本あり、実りの秋を待ち遠しくしてくれたものだ。
当時、体が弱く、両親が他の兄弟たちより大切にしてくれたため、さらに一層ひ弱になっていたのではないかとも考えられる。それでも昭和18年、独り立ちさせようと村上には一つしかない村上幼稚園に1年保育で入園することになる。
家からそれほど遠くはないが、何かと理由をつけて休むことが多く、今考えれば出席率からいって、到底卒園できるものではないように思う。それでも、紀元節、天長節、明治節など四大節の式典の日だけは決して休まなかった。ただ、園が園児にくれる一個の果物が欲しかっただけである。梨やりんごを白いハンカチで包み、持ち帰って母や兄姉に見せるのが私にとって最も楽しいことだった。
私は、生まれてからしばらくして脱腸となり、一部の友だちによくからかわれ、子供ながらに一種の劣等感を持っていた。
東京に住む一つ年下の従弟が両親と村上へやってきた時、従弟が「出ベソ」であることが分かり、父が遠来の客として連れていった瀬波の温泉大観荘でお湯に浸かりながら、お互いに指をさし、大笑いしたことを思い出す。旅館の窓の下に野良犬がいて、食事で余った肉片を与えたりして遊んでいたが、帰る時、玄関からタクシーに乗る数メートルの間に、この犬が待ち受けていて吠えられ、2人で恐怖のあまり泣き出した。幼稚園への入園を翌年に控え、年齢的にちょうどよいだろうと両親が判断し、脱腸の手術を受けることになる。村上にも外科医はいたが、私のことを案じ、少しでも都会でと新発田の松林病院(後に新潟県立新発田病院へ吸収)で手術した。診察のため、母に連れられて行った新発田からの帰り、わずかの間だが二等車に乗せてもらった。紺色のビロードの席と、木箱(小さな折詰)入りのくせのない真っ白なアイスクリームの味が今でも忘れられない。
手術のことも何となく覚えている。褐色のリノリウム床、石灰酸のにおい、麻酔のためか、それほど痛みを感じなかったこと、そして手術の後の痛みなど。数日間病室で泊り、抜糸の直後に退院の許可が下り、病院を去る時、私を肩車に乗せて喜んでくれた父の姿を今も思い出す。村上駅で降り、家の近所の日ごろ付き合っている商店の人々に私の手術後の元気な姿を見せながら、肩車に乗せて歩いていた。
今、考えても一、二の友人は思い出すが、ほとんどの人は記憶がない。平成7年新潟県の議会事務局長を最後に退職した山田善幸さん(現新潟商工会議所専務理事)が覚えていてくれ、私と同時に県庁に採用された時、声をかけてくれた。生真面目な山田さんは県庁時代、そして退職後も適切なアドバイスをしてくれた。私はなんとか親の七光りで幼稚園を除籍にはならず卒園した。住まいが町学校の校区だったので、兄姉とは異なりそこに入学することになった。このとき既に、姉は村上高等女学校の3年、兄は村上中学校の1年となって、共に上級学校へ進学していた。
写真 1歳になった頃。ようやく一人立ちができるようになった。
Comment » | 私について
7月 16th, 2009 — 2:49pm
華甲、いわゆる還暦から早いもので10年、ついに古稀を迎えたと思っていたが、それももう2年前となり、今年6回目の干支が廻ってきた。
「誰がそんな年に?」と自問したところであるが、60歳からの10年は本当に短かったように思う。父母達の時代と違い、今でも壮年と称したいのである。そんな時、誰が考えたか分からないが、便利な計算式がある。年齢に「0.7」を掛けると良いと言う。70×0.7=49、つまり49歳である。自分の現在の体力を考え、それも理窟かなとも思っていたが、先日、所属する中部地方の経済同友会のセミナーで福井大学の松本建一先生のお話を聴き、そうでないことに気が付いた。現在では大学卒の22歳が27歳、且つての定年55歳が67歳と伺った。何のことはない、ゴム紐が間延びしたのと同じことなのである。
同期の99パーセントが第一、第二の人生を卒業した。残り1パーセントの一人として商売をやっている。引退したいが事情が許さない。もうちょっとだけ頑張らなければならない。今、大切にしなければならないのは、唯一健康である。30歳台で痛風の発作があり、この病と上手に付き合ってなんとか60歳まで来たが、ついに糖尿病の疑い有りとなった。その時正直なところ、一瞬目の前が真っ暗になった。これで唯一の楽しみの酒も終わりである。専門医に相談せよと言われたが、面倒くさいので酒を控えることと、食事を減らして体重を落とすことにした。朝は味噌汁1杯、昼はトースト1枚、夜はフリーだがしばらく我慢して禁酒を実行した。我慢することは本当に辛かった。40日目で全て正常に近い数値を得た。ある程度の晩酌も許され、甘い言葉に乗って同じことを繰り返しかねない。宴席では蒸溜酒を若干いただくほか、禁酒を続けること、体重は9キロほど減り、更に約3ヵ月後、トータルで15キロ減った。衣服を詰めるのは一騒動だった。
考えてみれば、痩せるまで1升瓶4、5本を腰にぶら下げていたのである。そこで体重コントロールを続け、糖尿病の薬のお世話になるようなことは一生避けたいと思っていたが、やはりこの10年、酒のせいか時間の経過とともに少しずつ体重は増えたが、行きつけの医者の所にいる看護士さんからは「許容体重を越えることはないですね」とほめられる。しかし、最近は気のゆるみのせいか少々リバウンド気味である。
12年前、還暦の時に60歳までの想い出を「華甲に想う」にまとめたのは、晩酌をせず長い夜をすごさねばならない辛さを紛らわすために、時間つぶしのように文章を書き始めたことに端を発する。そして、古稀を迎え、その後の10年を書こうと机に向かうが筆が全く進まない。10年前は記憶だけで書けたが、時系列が定かでない。その上、人の名が思い浮かばない。そんなことから且つて書いたもの、アルバムなどをめくる。過去の莫大な資料をめくっているうちに見つからず、本当に面倒くさくなってしまう。そんなことから、古稀までの10年間の記録をまとめようとしたが不可能に近い。その時々の簡単な記録、そして考え方や判断など、その時の精一杯のことが文字として残っている。改めて文章書きをせずにそれを一括りにして最近の考え方などを加え、文字通り「手抜き」だが、社業や私自身については「私のふたこと、みこと」、技術士会での活動を「衣錦尚絅(いきんしょうけい)」にそれぞれの本にまとめてみた。
世間では「ブログ」なるものがあると聞く。日本人の一日のブログの投稿(アップロード)は世界一の数を誇るそうだ。「若者もすなるブログといふものを、老いてもしてみむとてするなり」という気持ちで、今までに書いてきたことなど、改めて整理し掲載していきたいと思う。

60歳からまとめた本の数々
Comment » | 私について