美術館の誕生

 平成7年、新潟市の平島から新光町へ、本業の社屋を移転することになった。当初は美術館を作るような計画は全くなく、ただ、移転地を探そうと思っていた時である。平成5年、正月の社内報で次のようなことを書いた。
 「信濃川本川大橋西詰の新しくできた新光町というオフィス街。下手の県庁から政府機関の合同庁舎などが並ぶ一角に、とりわけ大きくはないが、周辺の環境にマッチした8階ほどのビルが控えめに建っていました。ビルの名を確認のため、真下まで近づき見上げますと”科学技術会館“と読むことができました。一瞬特殊法人の建物かと思ったのですがどうもそうでもないらしく、テナントの看板を見ますと4階まではキタックと書いてあるではありませんか。瞬時、われを疑ったのですがその通りでした。5階以上は各種テナントが入っておりました。午後6時近く、知的でこざっぱりした若者たちが、テニスや水泳、あるいは縄のれんへと散って行きました。成果品の納入のため、一部セクションで若干名が残っての残業のためか、明るい室内照明の光が窓から漏れていました。一階エントランスホール脇にはミニギャラリーがあり、一応名の通った絵画などのほか、特別企画としてボストン美術館から里帰りした版木を用いて刷り上げたオリジナル浮世絵展が開かれており、通行人が足を止めたり中には数人の人が熱心に見入っていました。ビルの管理人に聞きますと、本当はキタックの自社ビルなのですが、わざと目立たないように名乗らなかったとのことです。等々…。でしたが急に電話の呼び出し音がけたたましく鳴り、初夢から醒めてしまいました。
 ここからが現実。世の中がいろいろと移り変わる中で…(以下略)」以上が平成5年1月の社内報の巻頭の一部である。
 決して、この通り実現するとは思わなかったが、平成7年11月、本社ビル新築の際、施工業者の鹿島建設の勧めもあって美術館を別棟として建設した。「正夢」である。
 悠々と流れる信濃川の川面に、青く映え雄姿を伸ばす私の会社の本社が入る技術士センタービル。本館であるこの建物と長さ12メートルの橋でつないだコンクリートの長方形の建物、知足美術館は一枚の絵のようなコントラストを演出している。
 企業は少しずつ発展していくにつれ、その社会的責任が大きくなる。そこで企業規模に合わせて社会に貢献するのは当然のことと私は思っている。この事は私どもに与えられた義務であるとの考えから本社移転を契機に設けた。所蔵品はそれほど多くはないが、これまでに入手した会社の所蔵品、会社に関係する方々、賛同してくださった知人による寄託品などである。一般的に個人の所有する美術品が世の中に公開されることは稀である。それらの美術品を常設展示し、社内外の方々の心にゆとりと潤いを生み出すことができればと考えている。この美術館の誕生で、良いものはだれでも見ることができるという、新潟の新しい環境づくりに役立てたら望外の喜びである。常設展だけでなく、県内作家や芸術を志す若手作家の展示の場としても、また蒐集した資料を展示し、忘れられかけた郷土の先達の足跡を振り返ることも大切なことだと思う。また、美術のみならず、私どもの業とする技術分野の展示、特に科学技術に関する展示にも積極的に取り組みたいとも思う。
 美術館と名乗るのは恥ずかしいくらいの、壁面が50メートルを少し超える程度のわずかなスペースの展示場である。創画会の平松礼二画伯が私の趣旨に賛同して下さった。画伯との話は美術館の名称に及び、知足美術館とすることにした。建設工事が始まって間もなく、「知足美術館」と「吾唯知足」と揮毫して下さった。画伯の美術への情熱と芸術の一層の普及発展を願ってのことだと感謝している。
 オープンは平成8年5月8日として、BSN新潟放送の好意により、第1回BSN所蔵品展(日本画)を企画した。なおその時、平松画伯はオープニングセレモニーに出席できず、残念がっておられた。常設展のほか、新潟県作家展や、私個人が無理に借金をして購入した歌川広重の保永堂初版の東海道五拾三次、ボストン美術館版木による絵なども展示した。これからは余暇過剰の時代、そんなことに対しても効果あるこのような企画を細々でも良い、長く続けて行けたらと念願している。
 個展では五十嵐敏雄展、それに新潟大学書道科の書展も行った。平成9年に入って、玉川大学芸術学科教授梶原新三先生のテキスタイルデザインによる染色展、それに第2回BSN所蔵品展(洋画)も開館一周年記念企画展としてBSN新潟放送の好意で開催した。各界の皆さんが好意的に協力してくれることに感謝している。

現在の展覧会

今後の展覧会

今後のイベント

現在の展覧会

青を旅する 木村直広 日本画展

館長の独り言

吾唯知足〜われただたるをしる〜