美術との出会い

 商売を始める前の私は、美術にはほとんど関心がなかった。時折、開催される巡回の展覧会などが来ない限り、興味を示さなかった。比較的小さな時、田舎の小学校で栗の絵を描いて金紙を張ってもらった事や、どこかの展覧会に出してもらったくらいであった。習字も展覧会に出品するため、その選手として稽古したことはある。しかし、成長するに及んで、左利き「ギッチョ」が災いして上達はしなかった。奥の手の左手を使えばいくらかはましであった。

 高校に入学すると、芸術で音楽か絵画の選択になる。音楽は美人の村山先生が教えているため人気があった。絵は比較的競争率が低いが、そういう意味でなく、やはり好きだったので絵画を選んだ。絵画といっても、鑑賞論であり、三浦文治先生が教えてくれた。三浦先生は東山魁夷画伯と同期で美術学校出身の日本画が専門だが、運悪く宿直の時、学校が火災になった。本人の失火ではないが、責任を取らされて転勤になった。「青空ポン太」というあだ名を持ち、花鳥の絵が得意だったと聞く。授業中に「君たちは芥子の花を栽培できないだろうが、僕は、絵描きだから少しは可能だよ」と言っておられた。そのころ、麻薬の原料なのに、画家の題材用として若干でも栽培が可能だったかどうかは疑問が残る。それにしても、素人が見ても、先生の絵は爽やかであった。平成8年、新潟大和で先生の回顧展が、新潟高校同窓会有志で開催され、人気を博し完売した。

 学生時代にはフランスから松方コレクションが返還となり、西洋美術館が誕生した。印象派とロダンの像にひかれて、上京のたびに通ったことを思い出す。このころは、モネの睡蓮に魅せられ、ロダン彫刻に陶酔し、そこで鑑賞できるものはすべて、頭に吸収できる年代であった。卒業後も会社時代を含めて、時間を作っては展覧会に通うようになった。今、考えると何を見ていたか、良く覚えていないが、県庁時代はやはり、上京の際の列車待ちを利用したりした。そんなこともだんだん忙しくなると思うように行かなくなった。なぜ、東京にだけ美術館が多く、新潟にはないのだろうと思ったものだ。

 県庁退職後は特に忙しくなり、一時すっかり美術鑑賞を忘れていたが、昭和49年、お中元を買い求めるため訪ねた東堀のイチムラデパートで見つけた鯉の掛け軸が何となく気に入り、十万円くらいだったと思うが、外商を通じてある時払いの催促なしで購入した。10円といえば、当時30歳代の中堅サラリーマンの1ヵ月分の給与より多かったと思う。買ったはいいが、作者の名を聞くのを忘れた。有名人だろうから誰かに聞けば分かると思っていたが、その後イチムラデパートが新潟から撤退し、ほかの画商に尋ねても答えが返ってこない。無名の作家なのだろう。それでも上手だ。毎年5月にこれを床の間に掛けるのが楽しみである。

 昭和53年、新潟三越がまだ小林デパートといっていたころである。私は、デパート巡りが大好きで、ふとしたことから美術部の売り場に入った。現代陶芸展などと銘打って焼物を20~30点並べていた。

藤本能道「木守」

 このころは焼物の知識など皆無である。ショーウインドウの中に大きな絵付けした六角皿があった。柿の枝に鳥が止まり、枝についているわずか一つの赤い柿の実を眺めているのである。題して「木守」。この時期まで色絵などという専門語も知らなかった。もちろん高い値段がついている。これを25%引きにして、しかも適当な分割ができないかと尋ねたが、答は「ノー」だった。東京芸術大学学長で、間もなく人間国宝になる人だという。仕方なく諦める。

 そのころ、よく通っていた古町にあった「味くら」という食べ物屋兼飲屋に行き、そんな話をしていると、「私が話してあげる」と女将が言う。「恐らく、それくらいは値引きするでしょう」と言う。あてにしていなかったが、翌日デパートから電話が来た。常務である責任者が直々に外商員を連れてくる。ここで話は成立するが、考えてみると買わなくてもよいものを買ってしまった。藤本能道先生の作品である。恐らくバブル期には購入価格の20倍くらいにはなったのであろうか。売らずに大切にわが家の宝物としてとってある。こんなことがあってもさっぱり、それ以上は興味が沸かなかった。
(「華甲に想う」より)

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吾唯知足〜われただたるをしる〜