村上での幼少期 2

村上での幼少期 2

 家の向かいには「中安」という屋号の薬局があり、私と同年代の娘さんが何人かおり、名は忘れたが確か一つ下のおとなしい女の子とよく遊んでいた。銀色のバスやタヌキの絵を描くのが好きで、普段は大切にしている金銀のクレヨンを使って描いた画用紙を店の中へ投げこんで来たことも思い出す。これが淡い恋心の表現だったのかも知れない。両家の両親ともほほ笑ましく私の行動を眺めていたような気がする。昭和18年8月に妹が生まれる。新発田に住んでいた母の姉が産婆さんと共に手伝う。確かお盆の13日で、出産の手伝いの役にたったかはよく分からないが、姉がこまめに働いていたような気がする。私は妹がどうして母から生まれるのか興味を持って産室の障子に近づくたびに追い返された。

 当時は、戦争の最も激しくなりかけたころ、東京では食料が底をつき父の妹夫婦、父の弟などが頻繁に、遠い村上まで訪ねて来て、食料を調達して行った。戦争が激しくなるまでは父の妹夫婦は、手広くベルト屋をやり、従兄弟たちには空気銃などを買い与え、われわれサラリーマン家庭から見ると羨ましい存在だった。私たち兄弟に離れた椿の葉を空気銃で打ち抜いて腕のよいところを見せてくれた。それ以来私は鉄砲嫌いになる。父の弟は、弁護士の資格を持ちながら、弁護士をやらず、都内で小学校の校長をしていた。少々派手好みで世田谷の和洋折衷の洒落た家に住み、教師になっているのは、給与がその方が高いからといっていた。時々書物を書き、出版されると父の所へ送ってきた。戦時中なのに、どこで手に入れたのか当時なかなか貴重品だったバナナの干物などをお土産に持ってきて私たち子供に包みのままくれた。

 親類の誰彼となくやって来て、鮭のシーズンには鮭を、収穫の秋には白米や豆、野菜などを風呂敷包みやリュックに入れて背負って帰って行った。それらはその時々に頂いたもので、母は自分たちの分を減らしても、父の弟妹には惜し気もなく持たせて帰した。役得といおうか父が県の官吏で土木派遣所に勤務していたおかげで食料は結構頂いていた。米が統制になってから、子供がたくさんいるわが家には、時々、役所や知り合いから穀物が届けられた。父が管内の出張の帰りに、若干の白米をお土産にもらって、自転車に積んだのだが、袋に小さな穴が開いていて途中路上に米がこぼれ落ち、イソップ物語のように米粒の線が家の入り口まで続いていた。母がそれに気づきあわてて、数軒先まで竹ぼうきで掃きに行ったことを思い出す。

庄内町の家

写真 お化け屋敷から転居した庄内町の家。1997年の撮影だが、前側のアルミサッシの他はほぼ当時のまま。脇の用水がコンクリート三面張りとなって、青大将も住みにくそうである。

現在の展覧会

今後の展覧会

今後のイベント

現在の展示

2017年 井口優 モンゴル絵画展

館長の独り言

吾唯知足〜われただたるをしる〜