最初の訪中 2

 朝鮮戦争の頃からよく「人海戦術」という言葉が使われていたが、文字通り、人を海のごとく使用するのである。この人民公社では用水路の改修を人海戦術で行っていた。老若男女皆、スコップをもって。但し土工量の出来高は極めて悪い。約3分の1位の人員が腰をおろして談笑している。これでは「大躍進」でもうまくゆくはずないと思った。
 昼食後、人民公社の幹部から現況の説明を受ける。我々のような見学者が大勢訪れるのであろう。説明慣れした幹部の一人が、いかに模範的な公社であるかを強調する。続いて、素晴らしいジャスミンの温室を見学する。ジャスミンはいわゆる「華茶(花茶)」の原料となる。その後、2階建てのブロック積みのモダン住宅の見学となったが、これは日本にある住宅展示場のモデルハウスらしく、「住人」がなんとなくよそよそしい。また、家具類は指でさわっても埃がつく。恐らく済んではいなかったと思う。プロパガンダとしてあまりよい気持ちはしなかった。何故、こんなところで組織としての虚栄心が必要なのだろうか。
 上海へ戻り、公社に付属する農村工場を視察した。電球工場であったが、手工業の生産性は極めて低いようだ。それでも純粋農業よりは現金収入があり、恵まれている。昭和22
~23年頃、住んでいた新潟県新発田市の輸出向けクリスマス用電球製造工場を思い出した。工場長の長時間に及ぶ説明を聴き、女性労働者の手作業を見学し、飽き飽きして退散した。
 次に大企業の視察で国営の模範的と言われる機器工場を案内された。私は機械部門の専門家ではないが、少なく見積もっても当時の日本に比べて30年は遅れているようだった。しかしそこには、すでに生産性の向上の為、報償金制度も取り入れられていた。工場長は環境問題も重視しているといって、廃水処理施設まで案内してくれた。モニターとして金魚など観賞用の魚が利用されていたのは面白かったし、その時点ではグッドアイディアであるとも思った。
 急な私達の希望で上海市科学技術委員会幹部と懇談することができた。未だ文化大革命終了後、3年しかたっていない為か、四つの現代化の最重要課題でありながら最先進地の上海ですら、私達の意図する科学技術交流の話題には乗り切れない状況のようであった。「これからの交流を希望する」で全てが終わった。やはり上海ですら改革開放の意味が充分に理解されていないのか。それとも、四人組問題がようやく終結直後の緊張感のせいだったのだろうか。
 南京では大躍進が終わってソ連が引き上げた後、自力更生の第一弾である南京大橋を渡り詳細に工事の説明を受けた。中蘇友好のシンボル武漢大橋がモデルといっても、随分すごいことを単独でやり遂げたものだと感心した。とうじとしてはビッグプロジェクトである。物資も払底していたに違いない。橋梁のシューに木材が使われていたのが印象的であった。
 南京郊外の江蘇省農業研究所を訪問した。当時としては珍しく結構ハイテク機器が多くあった。日本に機器も若干あったが、中国製独自の測定器が多数である。力の入る部分は文化大革命間もなくでもかなり進んでいたようだ。面白かったのが害虫標本である。これを現場で農民に示し、害虫駆除に役立てていたのである。
 その約半年後であるが、黒龍江省の同様の部署を訪問する機会を得たが、さらに最近の技術が取り入れられていた。進んでいたのは時間の問題か、それとも北の黒龍江省と南の江蘇省の地域的差か熱意の差か、今でも疑問が残る。
 この時のミッションには電気・電子、機械、化学、金属、鉄道、建設、農業、経営工学、応用理学などほとんどの分野のものが参加した。この最初の訪問のあと、数回のミッションが派遣され、現在のような中国への技術士派遣の礎となったものだと思う。
 この約半年後、再び中国を訪れるとは予想もしなかったが、何もかも珍しい改革開放に入った新たな中国の十数日の旅を終え、再び香港に入ったときは、何となくほっとしたのが最初の訪中の偽らざる実感であった。

現在の展覧会

今後の展覧会

今後のイベント

次回の展示

2017年 歌川広重 保永堂版 東海道五拾三次展

予備展示室

ボストン美術館所蔵版木による墨摺絵展

館長の独り言

吾唯知足〜われただたるをしる〜