最初の訪中 1

 中国を初めて訪れたのは1979年の1月である。文化大革命がようやく終焉を告げ、若干ではあったが解放政策のニオイを感じるころでもあった。とはいっても、通常の訪中ルートは香港経由で、香港・中国国境は極めて厳しく、仮設の木橋をスーツケースを引いて入国(入境)した。香港からの入国の際は、イミグレーションの係官は全く無表情をよそおい、真新しいパスポートを繰り返しめくっていた。その時一瞬、「竹のカーテン」といわれていたことを思い出した。
 そして緊張感を味わいながら、現在までの解放政策の未だ農地だったところを通り抜け広州への列車に乗った。駅頭には人があふれ、また私どもはすべて民衆から隔離されての行動である。訪中の目的は、(社)日本技術士会での中国科学技術事情調査で、観光はもちろん上海市科学技術委員会の訪問、当時流行の農村工場や、農業化学院、人民公社のモデル、あるいは自力更生による南京大橋などの建設現場、「技術」といわれるひと通りのメニューに沿って行動した。
 そんな馬鹿な話があるものかと子供心に思っていたが、小学生のころ中国には蚊もハエもいないなどと、先生が熱心に説明していた。しかしながら訪れた真冬の状況を見てもそのようなことは全く信じられなかった。どこを訪問しても、党の書記が必ずおり、比較的高齢の人が多く、頬杖をついて目を閉じてうさんくさそうにしている。女性幹部もたくさんいたが、現在活躍中の中国人幹部女性からは想像できないほどクールで無表情だった。上海の有名な錦江飯店も含めて、ホテルの部屋のドアはカギをかける必要はなく、現金、カメラなども机の上に投げ出していた。とにかく、外国人にからむ犯罪は重罪だった。今と違って庶民の間では外国人は別世界という観念が極めて強かったように思う。
 現在では、チップは当然として受け取るが、当時は、ボールペンを親しくなった若い男性服務員に無理やり渡したところ、困惑した様子でやっと受け取ってくれた。それでも気になったので、服務員室を訪ねてみたら、そのボールペンをどうすべきか、四、五名の小班で討議の真最中だった。観光で訪れた蘇州はさすがに古都の面影を残し、文化大革命の跡は少しずつ修復されつつあった。その歴史も古く、遠く六朝時代にさかのぼる。寒山寺も開放され、「楓橋夜泊」つまり「月落ち烏鳴いて」の石碑は、拓本取りの作業が行われていた。一枚買い求め、帰国後、戦前から家にあるものとくらべてみたが、よく見ると若干の相違があった。恐らく破壊され、新しく製作されたものなのだろう。(その後訪れたときは、石碑の摩擦を防ぐためガラスケースで厳重に保護されていた)この石碑のほか、近舟の筆による「寒山拾得」の石碑、清の光緒二年の銘のある梵鐘、五百羅漢像などが世界的に有名である。これらは世界的に有名であるかどうかは解らないが、日本人には馴染みがある。
 訪中目的は観光ではないが観光の合間をぬって、蘇州郊外の人民公社を訪れた。人民公社は日本の村に相当する行政単位であり、行政権は勿論のこと、警察権までもっていたようだ。昼時、マリンブルーの人民服を着た若い幹部が、「白酒」のビンを我々に見られないように後ろ側に隠し、すれ違って行った。文化大革命が終了した直後でも、やはり幹部はそれなりに特権があったようだ。
 先方の招待といっても名ばかりで実質当方が一切負担することは納得していたが、出される豪勢な料理には眼を見張った。大きな新鮮な鯉を丸ごと揚げたものなど10数品の昼の定食である。私はだれにも言わなかったが昼食直前、用を足した。当然、汲取り式であったが、肥溜めが2メートル位下にあり公社員が杓子で一生懸命汲んでいるではないか。食堂へ帰るときガイドに尋ねると、それは養鯉用のエサにするのだとのこと。さすがにいくら美味しそうな「鯉」を見ても箸をつける気には全くなれなかったことはいうまでもない。

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