先人の思い出 ~ 佐野藤三郎さん 2

先人の思い出 ~ 佐野藤三郎さん 2

 1982年7月だったと思う。第三次JICA調査団に参加のため、私一人が新潟駅から当時の特急「とき号」で出発した。家内が駅まで見送りに来た。ふとホームを見ると、亀田郷土地改良区のユニフォームつまり作業服姿の佐野さんが一人で立っておられる。「おー、おはよう」と声が。「おはようございます。これから行って参ります」「おーそうか、ご苦労さま」。誰かを見送りに来られたのだと思い込んでいた私は、出発される方がまだ来ないのだと思っていた。発車間際になってもそれらしい人はいない。動き出した「とき号」の中の私を見て、手を振っておられる。私をわざわざ見送りに?・・・(そうか、私ごときにそんなにまでして下さって)。ようやく気付き、青ざめた。もっともっと丁寧に挨拶をしてお礼も申し上げるべきだった。黒龍江省宝清県の招待所へ着いて、早速おわびの手紙を出した。片道1週間かかる。2週間経つと、佐野さんから葉書が届いた。「お気遣い無用」とあった。佐野さんの大きさにふれた1シーンである。
 また、1993年ころだったと思う。NHKが私を何回も取材し、北東アジア特集の長時間番組を制作していた。地域間の技術交流について佐野さんを訪問して、話をするよう要請が入り、亀田郷土地改良区を訪ねた。玄関に着くと、NHKのカメラが待っていた。しかし、私の歩き方が早過ぎて、撮影できなかったらしい。もう一度と要請され、再び車を玄関へ乗りつけた。やっとオーケーが出た。佐野さんは部屋でニコニコして迎え、「中山さん、よう来たね」と言って手を差しのべて下さった。佐野さんと理事長室で技術交流の話をしたが、この時も、カメラとのタイミングが合わず、申し訳ないがもう一度と言われた。拡大解釈すれば、これこそ「やらせ」ではないかと苦笑いしているのだが・・・。技術交流が緒についたばかりで、マスコミもそれなりに気遣ったものと思う。
 今から20年余り前に佐野さんが黒龍江省にいらした時、新潟県との技術交流が話題となったというので、帰国後、佐野さん自身も気にかけて何回も電話を下さった。また、佐野さんからの電話は海外技術協力の話だけでなく、佐野さんの政策上の話、人物に関することなども「どう思うか」と、その道に明るくない私にも相談を持ちかけられた。
 1970年から80年初めにかけて、技術協力に参加した頃は周囲から異端児扱いされたり、なぜ?と言われたりすることがしばしばあった。いくらかその難儀な体験に直面し、立ち止まることもあったが、私の体験などは、実に取るに足らない程度のことなのだ。
 それよりもさらに以前、二国間交流そのものが極めて困難な時代から将来を夢見ながら、信念をもって努力された佐野さんにここで改めて敬意を表したい。

現在の展覧会

今後の展覧会

今後のイベント

現在の展覧会

青を旅する 木村直広 日本画展

館長の独り言

吾唯知足〜われただたるをしる〜