中国との交流のはじまり

 地方公務員をなんとなく辞めて、商売をはじめて6年ほど経った1979年、ふとしたキッカケで中国との技術交流が始まった。この経験が私にとっての国際交流の礎となり、後の人生をより豊かななものにしてくれたと思う。そこで、美術館の話から少し離れて、中国との技術交流について数回に渡って掲載したい。
 嵐が吹き荒れた10年以上もの中国の文化大革命も終焉した後、旧満州最北部の三江平原(さんこうへいげん)プロジェクトに参加し、長い時は三ヶ月も中国の技術者と共に暮らし、荒野湿原の荒廃地の開墾を夢見た。しかし、その頃の日本海は厳しい冷戦構造の中で、ソ連邦、そして北朝鮮間に、まさに政治的バリアが存在しており、日本の世論も中国に対しての技術協力に決して好意的ではなく、これに参加することを周囲の者から異端児扱いされたり、得意先からも「何故、共産国へわざわざ」と言われたりした。さらに、冷たい態度も何回となく身をもって体験した。そのようなことを少々経験した私などまだまだ甘かった。それよりも前に、往来そのものが極めて困難な時代、「バリア日本海」の「氷解」を信じ、技術交流に努力された先人がいた。その方々を知るにつけ、私の多少難儀な体験など、些細なものであったことを改めて知り、それらの先人に心からの敬意を表さずにはいられない。
 1980年代中頃に入り、再び別の角度での技術交流が始まった。黒龍江省政府から技術交流が提案され、亡くなった津田禾粒新潟大学長を含む数名の訪中の招請を受けたが、出発直前に、あの不幸な天安門が起こり、訪中を中止し、その間約2年間の空白が生じた。その後、先方の要請もあり、以前の主旨に沿って、経験技能者も含めた広い範囲の新潟県対外科学技術交流協会を設立した。細水長流を原則に協議書を黒龍江省と政府が作った民間機関と調印。この時期から広い意味で日中民間技術交流が始まる。技術者派遣、技術研修生受入れのほか、双方で合意した特定課題を含めての技術交流は、最近までに派遣、受入れを合わせて80回以上に及ぶ。
 その間に、三江平原以来の黒龍江省関係機関等との友好関係、そして老朋友が多くできたことから、個人的に技術業務の合弁や独資の会社を設立した。これらは、言うまでもなく第一が中国への支援が目的である。中国で目指す小さな政府、これに国営企業の合理化を目指すリストラが始まり、その目的に沿うよう努力したのである。またAOTSなど政府系の研修機関を通じての技術研修生を受け入れ、さらに独自で就労技術者を受け入れ、大学院留学生の研修、それにアルバイトなどへの協力も結構引き受けた。これらにより、両国技術交流の一層の発展成長を期待するという願いであった。
 しかし、現実は期待と裏腹に、なかなかうまく行かないのが正直なところである。オーバーかも知れないが派遣されている技術者を、文字通り手塩にかけて教育する。すると、ある日突然、中国の出身機関から幹部へ登用すると連絡が来て彼らは帰国してしまう。また、数のうちには老父母の病気や一人っ子政策のツケによる登校拒否(いや、出社拒否といった方がいいのだろうか)などが生じる。その場合は、本人の意思に反して帰国することになる。何の為の技術交流なのだろうと思うこともしばしばであった。

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