「望」

6月 1st, 2011 — 8:00am

 東日本大震災において被災しなかった新潟に、私の本業である建設コンサルタントの本社はあります。仙台の事務所も幸いに大きな被害がありませんでした。
 「がんばろう」「心をひとつに」「絆」など、マスコミなどでよく見聞きする言葉で、励ましあっている会社もたくさんあります。しかし、被災していない私どもが、あれだけの震災を体験した方たちに「がんばろう」などと言うのはおこがましい話です。また、建設コンサルタントという職業からいっても、私どもの仕事は人の暮らしの基盤を整備することですので、どことなくピンとくるものがありません。
 そこで、この震災を受けて、思ったことを整理しなおし、震災から2ヶ月半も経ってしまいましたが、ようやく「望」という言葉にたどり着きました。次の通り「望」を掲げ、全社で次世代の日本の礎を築く努力をして参る所存です。

「望」
3月11日、被災地はもちろん、
日本人、そして世界中に、大震災が絶望、失望をもたらした。
しかし、私たちの国 日本には
立ち上がり、これまで以上の暮らしを築く力があると信じて、
復興への希望を掲げた。
この大災害からの復興は、長い道のりかもしれない。
でも、日本人のすべてが、世界中が、復興を望んで、手を携えている。
支えあう心から生まれる信望。
美しいふるさとを取り戻したい、住み慣れた町に帰りたい・・・望郷。
切望、願望、渇望! 望の数々があふれている。

それぞれの持つ「望」こそが、
復興へのエネルギーを生む。
***

これからの日本社会の基盤を築く、コンサルタント業の一員として−。
日々の暮らしのためには、
千年に一度あるかないかと、議論を延々と続けたり、
夢を追ってばかりはいられません。
それでも“想定外”という言葉で、
逃げることのできない社会的責任を担っています。
キタックでは一人ひとりが、
“今日の仕事”=ルーティーンになりがちな仕事にも、
未来への思いを、これまで以上に乗せていきます。
それは安心・安全へ繋がる「望」です。
毎日、たとえば5%ずつでも「望」を仕事に重ねていくことで、
未来を守る力が蓄積されます。
子どもの、孫の、そのまた…もっと先の未来にまで、
安心・安全があたり前の“幸せ”という大きな力となって届け!
そんな思いを込めて、キタックでは「望」を掲げます。

 皆様のお心にもそれぞれの「望」を掲げていただければ、必ずや日本はこれまで以上の国となるに違いありません。

*株式会社キタック|「望」


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東日本大震災に想う

5月 11th, 2011 — 8:00am

 東日本大震災から2ヶ月を経ましたが、日本国中で被災地を思い、未だ心安まらぬ日々が続いています。
 3月11日金曜日、14時46分、マグニチュード9.0という大きな地震が発生しました。その後、15時11分には誰も想像だにしなかった千年に一度ともいわれる大津波が襲来し、大惨事となりました。
 私の会社では、3月14日に緊急朝礼を行いました。年度末の繁忙期ではありましたが、全社員が会議室に集合し、大地震で亡くなられた方がたのご冥福と、被災者が一人でも多く無事であることを願い、祈りを捧げました。そして、この災害について会社としての考え方を話しました。
 3月19日に、私も被災地を視察に行きましたが、現場ではテレビの画面では決して伝わることのない、伝えてはならないような壮絶な被害状況を、目の当たりにしました。
 被災直後から現在に至るまで、被災地からの要請に従い、当社からも何名もの技術者を派遣しています。
 被災地の調査に出向いた技術者であれば、被災地を歩き続けるのですから、見てはいけない惨状に遭遇した者もいるでしょう。
 3月、4月は、例年になく寒い日々が続き、暖房もなく、お湯も出ない宿舎で眠り、また朝が来れば、現場へと出て行く…、豊かな時代に育った若者には、厳しい毎日だったと思います。
 そんな中、現場から戻った社員は、「被害に遭った人たちを思えば、宿があるだけでしあわせだったし、自分たちはとにかく頑張らなくてはと思うだけだった。」「自衛隊、消防、警察などの方たちの働きを見ていると、我々など苦労しているうちに入らない」と語ってくれました。
 また、現地で道行く人たちから、「私たちのために頑張ってくださって、本当にありがとう」と何度も声をかけて頂いたそうです。人は己がどんな苦境にあった時でも、何と優しく温かいものだろうと思った、という感想も聞いています。
 東北人の我慢強く、優しい気質が、このような時でも失われないことを知り、感銘を受けました。

 ところで、今回の大震災は「東日本」という名称通り、テレビ等でよく報道されている宮城、岩手、そして福島以外にも、広域で被災しています。
 たとえば、東北震源の地震の翌朝、長野県北部地震が発生しています。新潟県の上中越地方でも被害が出ておりますが、ほとんど全国ニュースにはなりません。
 北海道、青森、茨城、栃木、千葉などにおいても、それぞれ甚大な被害が出ているにも関わらず、騒がれていない土地の事は少し忘れてしまいがちですが、被災者一人ひとりの切なさは同じだということを思いやっていきたいものです。

 さて、世界中が恐怖と共に注目している福島の原子力発電所の事故は、中越沖地震の際の柏崎での教訓が生かされず、このような結果となりました。 目には見えない放射能という恐怖、終焉がいつなのか、誰にも先が分からない不安、まだ復興には手のつけられない状況です。 情報伝達の遅れ、あるいは小出しの説明は住民、そして国民の不安を募らせています。
 この震災が「想定外」だったことは確かですが、政府や電力会社の対応には「想定外だった から仕方ない」という言い訳は通用しないものが多かったと思います。この事故で日本は世界的な信用を失いました。技術立国としての信用、日本の安全神話、全てが崩壊したと言えましょう。
 一日も早く、福島の人たちが安心して暮らせる環境を取り戻すべく、政府と電力会社には努めて欲しいものです。
 原子力発電所および火力発電所の停止に伴い、需給逼迫により、東京電力が1951年創業以来、初の計画停電を実施しました。また、浜岡原子力発電所の停止など、これから暑い季節に向かって、まだまだ電力の心配は尽きません。
 宇宙から見る日本列島の夜景は、地球上で 一番輝いているといわれていました。贅沢に、それこそ無尽蔵に電気を使ってきた日本においては、考えられない出来事です。
 私の会社では建設コンサルタント業が政策的構造不況に陥ってから、日頃より社内での節約を心がけていました。私どものような小さな会社では、節約してもたかが知れているかもしれません。それでも更なる節電を実施し、全社での協力を続けています。

 近頃、「今、私たちにできること」が合い言葉のようになっています。本当に「今、被災地のためにできること」は何でしょうか? 体力、金銭、時間に余裕のある人は、現地にボランティアに行くなど、具体的に被災地のための活動をするのも良いかもしれません。しかし、残念ながら誰にでもできることではありませんし、また、それだけでは本当の意味の復興はできないのではないでしょうか。
 アクションを起こせない人でも、できる事は「普通に暮らすこと」だと思っています。被災しなかった私たちは、節電など、協力できることは積極的にすべきですが、それ以外は今まで通り普通に暮らしていくべきだと思っています。
 こちらが一緒に意気消沈して、「自粛」を合い言葉に、生活を必要以上に切り詰め、消費を止めてしまうと、日本経済そのものが立ち行かなくなります。
 家族や仲間と外食もすべきです。新しいものも買い、旅行にも行けば良いと思います。日本の産業が、企業が潰れないようにしていかねばなりません。企業が潰れてしまえば、あの広い東北の被災地を復興することなどできなくなります。
 ゴールデンウィークを機に、ようやく人々の暮らしが平常に戻ってきた事をニュース等で聞くようになりました。私たちが元気に暮らしていくことが、被災地をも救うことになるのです。
 このまるで戦災に遭ったのかのような被災地と、災害に心打ちひしがれた日本を力強く復興させてゆかねばなりません。
 そして、日本人ひとり一人の、日々の暮らしでの活躍が新たな日本の自信を築く礎となるはずです。


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感激!渋沢栄一賞の受賞

2月 8th, 2011 — 10:54pm

 この度、渋沢栄一賞受賞の栄に預かることができました。
 これも偏に、日頃の皆様方からの温かいご指導とご厚情の賜と心から感謝申し上げます。
 さて、図らずも頂いた内定通知は正に寝耳に水でした。その時、会員として参加させて頂いております新潟県経営者協会のご好意でご推薦頂いていたことを初めて知りました。
 この素晴らしい賞に該当する方が大勢いらっしゃる中で、私ごときに頂けるとは思いもかけませんでした。
 改めて自分自身を見直し、気恥ずかしい気持ちでいっぱいです。現在は経済情勢が一段と厳しくなっていく中で、商売も縮小化へ向かい一筋縄ではゆかないようですが、皆様方からの折角のご好意を無にすることのないよう、これからも業を通じて防災技術の発展、人材育成、芸術文化の普及啓発、社会福祉など、社会への貢献を目指すとともに、日頃、心掛けております「知足」 つまり、己の分際を安んじ、貪りの心を起こさぬよう、 貧者の一灯をともしつつ、誠心誠意行動して参りたいと思います。

—–

 2月8日には、さいたま市の「大宮ソニックシティ」において 、 渋沢栄一賞の表彰式が行われました。
 表彰式当日は、早朝、新潟を出発。宇都宮美術館において開催されておりました「荒井孝展」を鑑賞しました。日本画家 荒井 孝 氏(1938生まれ 足利市出身)の作品は、知足美術館で作品を所蔵しており、その作品を5点貸し出ししておりました。ご多忙の中、荒井孝先生、谷 新(たに あらた)宇都宮美術館長にお出迎え頂き、荒井孝先生直々の作品解説をお聞きしながら展覧会を拝見しました。最後の展示室に、当館の所蔵品が展示されていました。私の大好きな作品ですが、他館に飾られておりますと、まったく違う作品のような新鮮さを感じることができ、驚きました。
 目の保養をしたところで、さいたま市に入り、「氷川神社」を参拝しました。氷川神社は、武蔵国(東京、埼玉県)の一宮です。このたびの受賞の御礼をさせて頂き、氷川神社の主祭神である須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命の息吹きを一身に受け、式に臨みました。
 渋沢栄一賞の受賞者は2名で、広島県福山市の株式会社エフピコの代表取締役会長 小松安弘氏と、私でした。
 埼玉県知事、深谷市長、財団法人渋沢栄一記念財団理事長から、それぞれ表彰状と記念 品の市松人形、ブロンズ像、渋沢翁の書を染め抜いた藍染め額を戴きました。

上田清司埼玉県知事より表彰状を頂く

 また、渋沢栄一賞表彰式と併せて、ベンチャー企業等を対象にした「ドリーム賞」(5名)の表彰も行われました。次世代の日本を背負っていく若者たちの活躍が益々期待されるものと思います。若い受賞者の輝く表情から、自分の若かりし頃をほんの少し思い出し、73歳の身ながら仕事への情熱を新たにしました。
 表彰式の後、受賞者、受賞関係者、主催者、及び審査委員等70~80名でパーティーが盛大に行われました。小松会長の素晴らしいスピーチの後、私も受賞の喜びを「知足」の心に乗せて語らせて頂きました。
 また、まったく予定にもなく、聞かされていませんでしたが、BSN新潟放送(TBS系列)の方が、さいたま市の会場までわざわざテレビ取材に来てくださっていたことにも感激いたしました。
 人生のうちで大きく心に残る素晴らしい一日となりました。
 皆様、本当にありがとうございました。

祝賀会でお配りした余興「キタスポ号外」。社員が密かに作ってくれていたもので、嬉しかったが気恥ずかしさも。

「渋沢栄一賞について」
 渋沢栄一氏は、1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島 生まれ。
 家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学ぶ。
 「尊王攘夷」思想の影響を受け、京都へ向かい一橋慶喜に仕えた。
 27歳の時、水戸藩主 徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通じた。
明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくり関わる。
 1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動し、「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)となる。第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれている。
 また、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、1931(昭和6)年11月11日91歳で生涯を閉じた。
 渋沢栄一氏の出身地である埼玉県が、2002(平成14)年より渋沢栄一賞を制定し、渋沢翁の精神を受け継ぐような企業活動と社会貢献を行い、地域に根ざした企業又は企業経営者に対し贈られている。本年の第9回の受賞者を含め、これまでに全国で24名が受賞している。

 参照:埼玉県HP、財団法人渋沢栄一記念財団HP


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選挙に行こう

8月 23rd, 2009 — 8:17pm

 8月30日は第45回衆議院議員総選挙の投票日。
 20歳以上の日本国民であれば、一部の事情を除いては誰にでも与えられている選挙権であるが、投票率の低下がいつも問題となっている。前回2005年に行われた選挙では、およそ67%の投票率。3人に1人は選挙に行っていないということになる。
 衆議院議員野選挙は1889年、大日本国憲法の発布に伴い、国税15円以上納付、満25歳以上の男子による記名投票から始まった。戦後、1945年には婦人参政権と選挙年齢が満20歳となり、現在の選挙の形を成した。参政権を得るための、先人の苦労など露とも知らず、その権利を投げ出している人が多いことは残念に思える。
 一年間の国家予算が約80兆円。衆議院議員の任期は満了で4年で、約320兆円の予算がこの選挙の託される。有権者数1億人で割ると、一人当たり320万円となる。選挙に行かないと320万円の権利を放棄したことになる。という見解をする人もいるそうだ。自分が指示する人が当選しなければ、どうなる?などということもあるので、これは少々乱暴な計算だが、選挙一票の価値をどのように判断するか考えたとき、ひとつの指標としても良いのかもしれない。
 ところで、私は新潟市西区選挙管理委員長を拝命している。公正な選挙の実施はもちろんだが、とにかく投票に行ってもらうことが第一。ということで、8月23日は新潟市西区の大手スーパーマーケットの入口で選挙に行こうキャンペーンに参加した。
 期日前投票
 主張先滞在先投票
 病院や老人ホームでの投票
 重度の障がい等ある方の投票
 これらが記載された投票ミニ手引きやティッシュなどを配付。小さな活動ではあったが、少しでも投票率が上がれば良いと思う。
 

新潟市選挙管理委員会のマスコットトウヒョウザウルス「きめたろう」ポートクィーン帆苅千春さんと記念撮影。


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会社の伝統行事

7月 30th, 2009 — 2:39pm

 会社を設立したのは1973年。今年で創業36年になる。もう36年とも思うが、まだ、たった36年とも思う。
 会社には36年間で積み重ねてきた実績はあるが、創業百何十年という会社のような「伝統」と呼べるものはほとんどない。そんな中、今年で25回を迎えた「キタック夏まつり」は伝統と呼べるものになりつつある。
 1984年、まだ平島に本社があった頃、暑い夏の夕方から、会社の駐車場でビールと、バーベキューを楽しんだことが発端である。最初は社員と日頃から業務を依頼している協力会社の方たちで、親睦を兼ねた納涼会だった。そこから、社員の家族、協力会社のご家族と年々、輪が広がった。会社の親睦会を中心にして、社員や協力会社の人達が自分たちで焼き肉や、焼き鳥、枝豆など、屋台を作って看板を掲げ、まつり気分の納涼会となっていった。人数が増えるにつれ、屋台の種類も増え、社員の出身地である山形の芋煮や、中国の水餃子など本場の味もある。
 新光町に本社を移す時、社員よりもその他の関係者から「毎年楽しみにしていたのに、引っ越したら祭りはやめるのか?」とよく訊かれた。「もちろん、本社が移っても会社の駐車場で開催する」と答えると、皆、嬉しそうな顔をしてくださった。年々、夏まつりの規模は大きくなり、今では社員と協力会社ばかりではなく、日頃、付き合いをさせて頂いている新潟の有名人や著名人、文化人もご参加くださるようになった。7月末の土曜日(新潟まつり、長岡の花火と日が重ならなければ、8月の第一土曜日)、誰もが多忙な時に、お客様、協力会社、そして社員、毎年の顔ぶれが集るのが嬉しい。
 さて、今年7月25日の開催で25回め。社員は何日も前から準備をはじめるが、日頃接する機会の少ない社員同士であっても、息の合ったところを見せ、夏まつりをいかに楽しんで頂くかアイディアを出し、力を尽くす。
 不思議なことに一度も雨に降られたことがない。今年も開始直前まで不安定な天候だったが、まつりが始まる頃にはすっかり晴れて、美しい夕焼けも見られた。
 白山神社の宮司様のご好意で、有り難い祝詞から始まった。玉串を奉納して、集ってくださった方々の幸を祈る。さらに、水と土の芸術祭の爽やかな法被を召して、駆けつけて下さった新潟市長のご発声で乾杯。新潟大学理学部の学生によるブラスバンドも参加して華やぎを増した。およそ700名が集まり、それぞれ楽しく交流し、真夏の夜を過ごした。
 来年、再来年と、この夏まつりが賑やかに続いていくことを願っている。
 
 余談だが、私はいつもカメラを持って歩いている。これはまだフィルムのカメラだった時代から。元々カメラが好きだったこともあるが、いろんな人との交流や、その時々のことが記録に残るのが楽しい。今年はたまたま私がカメラを持たずに居たら、写真がほとんど撮られていなかった。折角、集って下さった方々の思い出は心の中にのみ留めることとしよう。やっぱり私がカメラを持っていないとダメなのだ。

09キタック夏祭り 09キタック夏祭り 09キタック夏祭り
白山神社宮司による祝詞
開会の挨拶
篠田市長の乾杯

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村上での幼少期 2

7月 28th, 2009 — 7:21pm

 家の向かいには「中安」という屋号の薬局があり、私と同年代の娘さんが何人かおり、名は忘れたが確か一つ下のおとなしい女の子とよく遊んでいた。銀色のバスやタヌキの絵を描くのが好きで、普段は大切にしている金銀のクレヨンを使って描いた画用紙を店の中へ投げこんで来たことも思い出す。これが淡い恋心の表現だったのかも知れない。両家の両親ともほほ笑ましく私の行動を眺めていたような気がする。昭和18年8月に妹が生まれる。新発田に住んでいた母の姉が産婆さんと共に手伝う。確かお盆の13日で、出産の手伝いの役にたったかはよく分からないが、姉がこまめに働いていたような気がする。私は妹がどうして母から生まれるのか興味を持って産室の障子に近づくたびに追い返された。
 当時は、戦争の最も激しくなりかけたころ、東京では食料が底をつき父の妹夫婦、父の弟などが頻繁に、遠い村上まで訪ねて来て、食料を調達して行った。戦争が激しくなるまでは父の妹夫婦は、手広くベルト屋をやり、従兄弟たちには空気銃などを買い与え、われわれサラリーマン家庭から見ると羨ましい存在だった。私たち兄弟に離れた椿の葉を空気銃で打ち抜いて腕のよいところを見せてくれた。それ以来私は鉄砲嫌いになる。父の弟は、弁護士の資格を持ちながら、弁護士をやらず、都内で小学校の校長をしていた。少々派手好みで世田谷の和洋折衷の洒落た家に住み、教師になっているのは、給与がその方が高いからといっていた。時々書物を書き、出版されると父の所へ送ってきた。戦時中なのに、どこで手に入れたのか当時なかなか貴重品だったバナナの干物などをお土産に持ってきて私たち子供に包みのままくれた。
 親類の誰彼となくやって来て、鮭のシーズンには鮭を、収穫の秋には白米や豆、野菜などを風呂敷包みやリュックに入れて背負って帰って行った。それらはその時々に頂いたもので、母は自分たちの分を減らしても、父の弟妹には惜し気もなく持たせて帰した。役得といおうか父が県の官吏で土木派遣所に勤務していたおかげで食料は結構頂いていた。米が統制になってから、子供がたくさんいるわが家には、時々、役所や知り合いから穀物が届けられた。父が管内の出張の帰りに、若干の白米をお土産にもらって、自転車に積んだのだが、袋に小さな穴が開いていて途中路上に米がこぼれ落ち、イソップ物語のように米粒の線が家の入り口まで続いていた。母がそれに気づきあわてて、数軒先まで竹ぼうきで掃きに行ったことを思い出す。
庄内町の家
写真 お化け屋敷から転居した庄内町の家。1997年の撮影だが、前側のアルミサッシの他はほぼ当時のまま。脇の用水がコンクリート三面張りとなって、青大将も住みにくそうである。


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村上での幼少期 1

7月 27th, 2009 — 6:31pm

 「知足」について語るために、中国との交流の始まりを数日にわたり紹介した。中国の話はまだ長く続くので、今日は少し気分を変えて私の生い立ちについて。
1歳頃 私がこの世にいるということを記憶している最初は、地方官吏の父が赴任していた旧村上町である。
 新潟県岩船郡村上町庄内町のある、出征して留守になっていた開業医宅の広い台所の板の間で、母の膝の上でのことである。恐らく、昭和14年のような気がする。数えて3歳ぐらいではないかと思う。
 私は父が赴任していた新潟県北蒲原郡新発田町(しばたまち)竹町で生まれ、その後の転勤で村上へ。8つ上の姉と、6つ上の兄も転校を余儀なくされた。兄たちの学校は落ち着いた生垣の旧家が連なる町並みの中にあって武家の学校といわれた本町小学校だ。村上には当時、武家と町人の学校が分かれており、木柵を挟んで、用水路が走り、その上流は町人の町学校、下流が武家の本町学校だった。人口比率からいって、町学校の方が当然のことながら生徒も多く、境界の木柵を挟んでよく喧嘩をしていた。
 私の記憶違いでなければ、村上に移った最初の家は通称、杉原の古い武家屋敷であった。引っ越しの際、押し入れの壁のねずみ穴を大量の栗のイガでふさいであったのが崩れ落ちたら、皆が「出た!」といって逃げたとか、月夜なのに雨の音が聞こえたとか、その他さまざまなお化け伝説が耳に入った。数週後のある日、役所から戻った父の突然の指令で、町人の町、庄内町へ引っ越したのである。その家はもう、今は見ることはできない。
 移った家の学校区は町人と武士の境界からわずか数メートル町人側に入っていた。町医者の家らしく、大きくゆとりがあり、脇には用水が流れ、台所の土間には、井戸側を施した手押しポンプの井戸があり、今考えれば恐らく一段高い旧三面川(みおもてがわ)の河原の砂利まで掘って、地下水を汲んでいたものと考えられる。ときどき大きな青大将がわが物顔で用水を横断していた。裏庭も結構広く栗の巨木も数本あり、実りの秋を待ち遠しくしてくれたものだ。

 当時、体が弱く、両親が他の兄弟たちより大切にしてくれたため、さらに一層ひ弱になっていたのではないかとも考えられる。それでも昭和18年、独り立ちさせようと村上には一つしかない村上幼稚園に1年保育で入園することになる。
 家からそれほど遠くはないが、何かと理由をつけて休むことが多く、今考えれば出席率からいって、到底卒園できるものではないように思う。それでも、紀元節、天長節、明治節など四大節の式典の日だけは決して休まなかった。ただ、園が園児にくれる一個の果物が欲しかっただけである。梨やりんごを白いハンカチで包み、持ち帰って母や兄姉に見せるのが私にとって最も楽しいことだった。
 私は、生まれてからしばらくして脱腸となり、一部の友だちによくからかわれ、子供ながらに一種の劣等感を持っていた。
 東京に住む一つ年下の従弟が両親と村上へやってきた時、従弟が「出ベソ」であることが分かり、父が遠来の客として連れていった瀬波の温泉大観荘でお湯に浸かりながら、お互いに指をさし、大笑いしたことを思い出す。旅館の窓の下に野良犬がいて、食事で余った肉片を与えたりして遊んでいたが、帰る時、玄関からタクシーに乗る数メートルの間に、この犬が待ち受けていて吠えられ、2人で恐怖のあまり泣き出した。幼稚園への入園を翌年に控え、年齢的にちょうどよいだろうと両親が判断し、脱腸の手術を受けることになる。村上にも外科医はいたが、私のことを案じ、少しでも都会でと新発田の松林病院(後に新潟県立新発田病院へ吸収)で手術した。診察のため、母に連れられて行った新発田からの帰り、わずかの間だが二等車に乗せてもらった。紺色のビロードの席と、木箱(小さな折詰)入りのくせのない真っ白なアイスクリームの味が今でも忘れられない。
 手術のことも何となく覚えている。褐色のリノリウム床、石灰酸のにおい、麻酔のためか、それほど痛みを感じなかったこと、そして手術の後の痛みなど。数日間病室で泊り、抜糸の直後に退院の許可が下り、病院を去る時、私を肩車に乗せて喜んでくれた父の姿を今も思い出す。村上駅で降り、家の近所の日ごろ付き合っている商店の人々に私の手術後の元気な姿を見せながら、肩車に乗せて歩いていた。
 今、考えても一、二の友人は思い出すが、ほとんどの人は記憶がない。平成7年新潟県の議会事務局長を最後に退職した山田善幸さん(現新潟商工会議所専務理事)が覚えていてくれ、私と同時に県庁に採用された時、声をかけてくれた。生真面目な山田さんは県庁時代、そして退職後も適切なアドバイスをしてくれた。私はなんとか親の七光りで幼稚園を除籍にはならず卒園した。住まいが町学校の校区だったので、兄姉とは異なりそこに入学することになった。このとき既に、姉は村上高等女学校の3年、兄は村上中学校の1年となって、共に上級学校へ進学していた。
写真 1歳になった頃。ようやく一人立ちができるようになった。


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最初の訪中 2

7月 26th, 2009 — 1:16pm

 朝鮮戦争の頃からよく「人海戦術」という言葉が使われていたが、文字通り、人を海のごとく使用するのである。この人民公社では用水路の改修を人海戦術で行っていた。老若男女皆、スコップをもって。但し土工量の出来高は極めて悪い。約3分の1位の人員が腰をおろして談笑している。これでは「大躍進」でもうまくゆくはずないと思った。
 昼食後、人民公社の幹部から現況の説明を受ける。我々のような見学者が大勢訪れるのであろう。説明慣れした幹部の一人が、いかに模範的な公社であるかを強調する。続いて、素晴らしいジャスミンの温室を見学する。ジャスミンはいわゆる「華茶(花茶)」の原料となる。その後、2階建てのブロック積みのモダン住宅の見学となったが、これは日本にある住宅展示場のモデルハウスらしく、「住人」がなんとなくよそよそしい。また、家具類は指でさわっても埃がつく。恐らく済んではいなかったと思う。プロパガンダとしてあまりよい気持ちはしなかった。何故、こんなところで組織としての虚栄心が必要なのだろうか。
 上海へ戻り、公社に付属する農村工場を視察した。電球工場であったが、手工業の生産性は極めて低いようだ。それでも純粋農業よりは現金収入があり、恵まれている。昭和22
~23年頃、住んでいた新潟県新発田市の輸出向けクリスマス用電球製造工場を思い出した。工場長の長時間に及ぶ説明を聴き、女性労働者の手作業を見学し、飽き飽きして退散した。
 次に大企業の視察で国営の模範的と言われる機器工場を案内された。私は機械部門の専門家ではないが、少なく見積もっても当時の日本に比べて30年は遅れているようだった。しかしそこには、すでに生産性の向上の為、報償金制度も取り入れられていた。工場長は環境問題も重視しているといって、廃水処理施設まで案内してくれた。モニターとして金魚など観賞用の魚が利用されていたのは面白かったし、その時点ではグッドアイディアであるとも思った。
 急な私達の希望で上海市科学技術委員会幹部と懇談することができた。未だ文化大革命終了後、3年しかたっていない為か、四つの現代化の最重要課題でありながら最先進地の上海ですら、私達の意図する科学技術交流の話題には乗り切れない状況のようであった。「これからの交流を希望する」で全てが終わった。やはり上海ですら改革開放の意味が充分に理解されていないのか。それとも、四人組問題がようやく終結直後の緊張感のせいだったのだろうか。
 南京では大躍進が終わってソ連が引き上げた後、自力更生の第一弾である南京大橋を渡り詳細に工事の説明を受けた。中蘇友好のシンボル武漢大橋がモデルといっても、随分すごいことを単独でやり遂げたものだと感心した。とうじとしてはビッグプロジェクトである。物資も払底していたに違いない。橋梁のシューに木材が使われていたのが印象的であった。
 南京郊外の江蘇省農業研究所を訪問した。当時としては珍しく結構ハイテク機器が多くあった。日本に機器も若干あったが、中国製独自の測定器が多数である。力の入る部分は文化大革命間もなくでもかなり進んでいたようだ。面白かったのが害虫標本である。これを現場で農民に示し、害虫駆除に役立てていたのである。
 その約半年後であるが、黒龍江省の同様の部署を訪問する機会を得たが、さらに最近の技術が取り入れられていた。進んでいたのは時間の問題か、それとも北の黒龍江省と南の江蘇省の地域的差か熱意の差か、今でも疑問が残る。
 この時のミッションには電気・電子、機械、化学、金属、鉄道、建設、農業、経営工学、応用理学などほとんどの分野のものが参加した。この最初の訪問のあと、数回のミッションが派遣され、現在のような中国への技術士派遣の礎となったものだと思う。
 この約半年後、再び中国を訪れるとは予想もしなかったが、何もかも珍しい改革開放に入った新たな中国の十数日の旅を終え、再び香港に入ったときは、何となくほっとしたのが最初の訪中の偽らざる実感であった。


Comment » | 蒼き大地-中国-に魅せられて

最初の訪中 1

7月 25th, 2009 — 2:40pm

 中国を初めて訪れたのは1979年の1月である。文化大革命がようやく終焉を告げ、若干ではあったが解放政策のニオイを感じるころでもあった。とはいっても、通常の訪中ルートは香港経由で、香港・中国国境は極めて厳しく、仮設の木橋をスーツケースを引いて入国(入境)した。香港からの入国の際は、イミグレーションの係官は全く無表情をよそおい、真新しいパスポートを繰り返しめくっていた。その時一瞬、「竹のカーテン」といわれていたことを思い出した。
 そして緊張感を味わいながら、現在までの解放政策の未だ農地だったところを通り抜け広州への列車に乗った。駅頭には人があふれ、また私どもはすべて民衆から隔離されての行動である。訪中の目的は、(社)日本技術士会での中国科学技術事情調査で、観光はもちろん上海市科学技術委員会の訪問、当時流行の農村工場や、農業化学院、人民公社のモデル、あるいは自力更生による南京大橋などの建設現場、「技術」といわれるひと通りのメニューに沿って行動した。
 そんな馬鹿な話があるものかと子供心に思っていたが、小学生のころ中国には蚊もハエもいないなどと、先生が熱心に説明していた。しかしながら訪れた真冬の状況を見てもそのようなことは全く信じられなかった。どこを訪問しても、党の書記が必ずおり、比較的高齢の人が多く、頬杖をついて目を閉じてうさんくさそうにしている。女性幹部もたくさんいたが、現在活躍中の中国人幹部女性からは想像できないほどクールで無表情だった。上海の有名な錦江飯店も含めて、ホテルの部屋のドアはカギをかける必要はなく、現金、カメラなども机の上に投げ出していた。とにかく、外国人にからむ犯罪は重罪だった。今と違って庶民の間では外国人は別世界という観念が極めて強かったように思う。
 現在では、チップは当然として受け取るが、当時は、ボールペンを親しくなった若い男性服務員に無理やり渡したところ、困惑した様子でやっと受け取ってくれた。それでも気になったので、服務員室を訪ねてみたら、そのボールペンをどうすべきか、四、五名の小班で討議の真最中だった。観光で訪れた蘇州はさすがに古都の面影を残し、文化大革命の跡は少しずつ修復されつつあった。その歴史も古く、遠く六朝時代にさかのぼる。寒山寺も開放され、「楓橋夜泊」つまり「月落ち烏鳴いて」の石碑は、拓本取りの作業が行われていた。一枚買い求め、帰国後、戦前から家にあるものとくらべてみたが、よく見ると若干の相違があった。恐らく破壊され、新しく製作されたものなのだろう。(その後訪れたときは、石碑の摩擦を防ぐためガラスケースで厳重に保護されていた)この石碑のほか、近舟の筆による「寒山拾得」の石碑、清の光緒二年の銘のある梵鐘、五百羅漢像などが世界的に有名である。これらは世界的に有名であるかどうかは解らないが、日本人には馴染みがある。
 訪中目的は観光ではないが観光の合間をぬって、蘇州郊外の人民公社を訪れた。人民公社は日本の村に相当する行政単位であり、行政権は勿論のこと、警察権までもっていたようだ。昼時、マリンブルーの人民服を着た若い幹部が、「白酒」のビンを我々に見られないように後ろ側に隠し、すれ違って行った。文化大革命が終了した直後でも、やはり幹部はそれなりに特権があったようだ。
 先方の招待といっても名ばかりで実質当方が一切負担することは納得していたが、出される豪勢な料理には眼を見張った。大きな新鮮な鯉を丸ごと揚げたものなど10数品の昼の定食である。私はだれにも言わなかったが昼食直前、用を足した。当然、汲取り式であったが、肥溜めが2メートル位下にあり公社員が杓子で一生懸命汲んでいるではないか。食堂へ帰るときガイドに尋ねると、それは養鯉用のエサにするのだとのこと。さすがにいくら美味しそうな「鯉」を見ても箸をつける気には全くなれなかったことはいうまでもない。


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先人の思い出 ~ 佐野藤三郎さん 2

7月 24th, 2009 — 12:45pm

 1982年7月だったと思う。第三次JICA調査団に参加のため、私一人が新潟駅から当時の特急「とき号」で出発した。家内が駅まで見送りに来た。ふとホームを見ると、亀田郷土地改良区のユニフォームつまり作業服姿の佐野さんが一人で立っておられる。「おー、おはよう」と声が。「おはようございます。これから行って参ります」「おーそうか、ご苦労さま」。誰かを見送りに来られたのだと思い込んでいた私は、出発される方がまだ来ないのだと思っていた。発車間際になってもそれらしい人はいない。動き出した「とき号」の中の私を見て、手を振っておられる。私をわざわざ見送りに?・・・(そうか、私ごときにそんなにまでして下さって)。ようやく気付き、青ざめた。もっともっと丁寧に挨拶をしてお礼も申し上げるべきだった。黒龍江省宝清県の招待所へ着いて、早速おわびの手紙を出した。片道1週間かかる。2週間経つと、佐野さんから葉書が届いた。「お気遣い無用」とあった。佐野さんの大きさにふれた1シーンである。
 また、1993年ころだったと思う。NHKが私を何回も取材し、北東アジア特集の長時間番組を制作していた。地域間の技術交流について佐野さんを訪問して、話をするよう要請が入り、亀田郷土地改良区を訪ねた。玄関に着くと、NHKのカメラが待っていた。しかし、私の歩き方が早過ぎて、撮影できなかったらしい。もう一度と要請され、再び車を玄関へ乗りつけた。やっとオーケーが出た。佐野さんは部屋でニコニコして迎え、「中山さん、よう来たね」と言って手を差しのべて下さった。佐野さんと理事長室で技術交流の話をしたが、この時も、カメラとのタイミングが合わず、申し訳ないがもう一度と言われた。拡大解釈すれば、これこそ「やらせ」ではないかと苦笑いしているのだが・・・。技術交流が緒についたばかりで、マスコミもそれなりに気遣ったものと思う。
 今から20年余り前に佐野さんが黒龍江省にいらした時、新潟県との技術交流が話題となったというので、帰国後、佐野さん自身も気にかけて何回も電話を下さった。また、佐野さんからの電話は海外技術協力の話だけでなく、佐野さんの政策上の話、人物に関することなども「どう思うか」と、その道に明るくない私にも相談を持ちかけられた。
 1970年から80年初めにかけて、技術協力に参加した頃は周囲から異端児扱いされたり、なぜ?と言われたりすることがしばしばあった。いくらかその難儀な体験に直面し、立ち止まることもあったが、私の体験などは、実に取るに足らない程度のことなのだ。
 それよりもさらに以前、二国間交流そのものが極めて困難な時代から将来を夢見ながら、信念をもって努力された佐野さんにここで改めて敬意を表したい。


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